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2015年06月02日13:01

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知的刺激の宝箱としての�爛┘鵐琶験忰�

(今こそミヒャエル・エンデ)あかがね色の本、物語にも登場
 ドイツの作家が生み出した「魔法の本」たち。日本の出版界にヒントを与えてくれる。
 おしゃれなマンションの一室に、1冊の本が宝石のように置かれている――。
 本が売れない時代に奮闘する書店員を描くテレビドラマ「戦う!書店ガール」では、主人公の「人生を変えた本」としてミヒャエル・エンデの『はてしない物語』が何度も映し出される。原作にはない同書をドラマに登場させることにしたのは、「電子書籍では出せない、リアルな本ならではの美しい一冊だったから」と関西テレビの山下有為プロデューサーは言う。
 父親が著名な画家だったエンデは、自身も絵を描き、装丁にもこだわりがあった。代表作『モモ』では、自身が望んだ挿絵画家が出版社に認められず、装丁をめぐる話し合いは難航。挿絵はすべて自身が描き、挿絵も文字も、異世界を思わせるセピア色にすることが決まって初めて出版に合意したという。
 そうした装丁への思いが結実したのが、『はてしない物語』だった。
 「エンデは、この本を『魔法の本』と言っていました。だから装丁も、中に独立した世界があるような、特別なものでなければならない、と」と、17年にわたりエンデの編集者を務めたローマン・ホッケさんは話す。
 翻訳した上田真而子(まにこ)さんは、世界各地の翻訳者を集めた会議で、エンデが装丁を原著通りにするよう強く求めていたのを覚えているという。
 表紙は布張りで、色はあかがね色に。文字は2色のインクを使い、現実の世界とファンタジーの世界とを色分けするように。「本=物語。物語=本。書かれていることを頭で理解するのではなく、体で体験してほしいと願っていた」と上田さんは言う。
 物語の中で、主人公のバスチアンは古本屋で見つけた「あかがね色」の本を盗み、読み始める。夢中で読み進むうち、物語の中に、自分が手にしている本が登場することに気がつき、いつしか自分自身も物語の中に入って行く。
 表紙に2匹の蛇が描かれた布張りの本。読者もまた、自分が手にした本が、同じだと気がつき、主人公と一体化していく。本は、物語に入り込む入り口としての装置だった。
 装丁家の大久保明子さんは、「重みのある本だからこそ『物語』が入っていると実感できる。主人公と同じ布張りの表紙の本の感触を手にし、一枚一枚手でめくるから自然に本に入って行くことができる」とみる。
 原書通りの「あかがね色」の表紙を実現したハードカバー版では、版元の岩波書店は布を特注、価格は税込みで3千円を超える。「コストはかかっても、本の存在価値が高まった。紙の本ならではの、これからの本のあり方にヒントを与えてくれるような本」と岩波書店マーケティング部の堀内まゆみさんは言う。
 贅沢だからこそ、魅力を放つ本。日本図書設計家協会の宮川和夫会長は「今は紙の本が生き残るかの岐路。『はてしない物語』のように、この本だけは紙で読もうという魅力をいかに高めるかが重要」と話す。電子書籍が生まれ、「本の価値」とは何か問われている今、エンデの「魔法の本」たちをもう一度、手にとってみたい。
 (守真弓)
 <足あと> 1929年、南ドイツ生まれ。主な作品に、『ジム・ボタンの機関車大旅行』『モモ』『魔法のカクテル』など。『はてしない物語』の共訳者・佐藤真理子さんと結婚。95年死去。
 <もっと学ぶ> 時間泥棒に盗まれた時間を人間に取り戻してくれる女の子の冒険を描いた『モモ』は、41カ国で出版された。
 翻訳家の田村都志夫さんによるエンデのインタビューが収められた『ものがたりの余白』(岩波現代文庫)や、エンデの創作メモやエッセーなどを収録した『エンデのメモ箱』(同)からも、本に込めた思いを知ることができる。
 <かく語りき> 「ほんとうの物語は、みんなそれぞれはてしない物語なんだ」「そういう魔法の本は、もっともっとある。それに気がつかない人が多いんだ。つまり、そういう本を手にして読む人しだいなんだ」(『はてしない物語』から)
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昨日の朝日新聞の朝刊「文化・文芸」欄に、「(今こそミヒャエル・エンデ)あかがね色の本、物語にも登場」というコラムが掲載された。

わたしが初めてミヒャエル・エンデの作品を読んだのは、『鏡のなかの鏡―迷宮』(岩波同時代ライブラリー)であった。その延での作品をんで、エンデのなかに�狒喫�教�疆�なものを感じた。

『鏡のなかの鏡』というタイトル自体、禅の公案にある、「鏡のなかの鏡には何が映っているか」と問う公案があるからのものではないかと思えた。その公案の答えは「何も映らない」となりそうだが、しかし公案にはそもそも�狹�え�疆�ない。そこに禅仏教の深さと面白さがあるのだ。本当は、ここでひとつのプロセスが始まっていく。こちらからあちらに映し、あちらからこちらに映し返される無限の映し返しのプロセス-二枚の鏡が向き合うと、こうして何ごとかが発生していくのだ。

わたしはエンデ文学のなかに、�狒喫�教的なもの�瓩魎兇玄茲辰董�岩波書店から刊行されていた『エンデ全集』を全巻購入し、読み老けたものである。なかでも『モモ』という諸説の主題が�犹�間�瓩砲覆辰討い襪箸海蹐法↓犹�と無�瓩箸��犹�と空�瓩箸�というものも考えだして、それがまた西谷啓治先生の『宗教とは何か』(創文社)に収められた第五論文「空と時」や第六論文「空と歴史」につながっていった。

エンデ文学の面白さは、それ自体が非常に�狹�学的なテーマ�瓩魄靴い覆�らも、それが単に西洋哲学という枠組みに留まらず、�狒喫�教的�瓩覆發里砲泙乃擇鵑任い董△修譴鯑匹狷票圓豊狒喫�教�瓩気蕕豊狒喫�教�瓩鯏�学的思索のベースとした京都学派の哲学との関連性を思わさせるところにあるのだ。

まさしくエンデ文学は、知的刺激の宝箱なのである。
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