mixiユーザー(id:31373691)

2026年06月20日20:18

51 view

贋金造

戊辰戦争、特に激戦となった白河口の戦い(慶応4年/1868年)の際、新政府軍(官軍)が戦地や宿場町で「官軍御用」の札を打った(掲げた・徴発の徴証とした)というお話ですね。
この「資金」や「お札」の出処、そして「薩摩藩が藩札発行機を持ち歩いていたのではないか」という疑問について、当時の新政府軍の台所事情と、非常に興味深い歴史の裏側から整理してみます。
結論から申し上げますと、軍が**「印刷機を持ち歩いてその場で刷っていた」というわけではありません**が、それに近い形で**「あらかじめ大量に用意した新政府の紙幣(太政官札など)や、薩摩藩独自の調達ネットワーク」**を背景に、強大な資金力を行使していたのは事実です。
## 1. 「官軍御用」の札の正体と資金
白河口の戦いなどにおいて、官軍が各地の豪商や宿場に掲げさせた「官軍御用」の札は、基本的には**「新政府軍が公務(戦争)のためにこの物資・人員・宿舎を確保した」**という、いわば強制的な徴発(物資の差し押さえ)や特権を示す目印でした。
しかし、ただ奪い取るだけでは地元の大反発を招き、進軍が滞ります。そこで官軍は、これらの物資や軍資金の調達に対して、相応の「対価(お金)」を支払っていました。その原資となったのが以下のものです。
* **太政官札(だじょうかんさつ)の投入**
新政府は慶応4年5月(ちょうど白河を巡る攻防戦の最中)から、日本初の全国統一紙幣である「太政官札」を発行し始めました。これは京都や大坂で印刷され、由利公正らの計画のもと、莫大な戊辰戦争の戦費をまかなうために東征軍へ送られました。
* **三井組などの政商からの御用金**
京都・大坂・江戸の豪商(三井や島田など)から集めた巨額の軍資金が、前線の部隊に供給されていました。
## 2. 薩摩藩が「発行機」を持ち歩いていた、と言われる背景
「薩摩藩が藩札発行機(印刷機)を戦場に持ち歩いていた」という具体的な公式記録は確認されていません。当時の木版や銅版の印刷設備はそれなりに大掛かりであり、移動を重ねる野戦の輜重隊(しちょうたい・輸送部隊)がそれを携行して進軍するのは現実的に困難だったと考えられます。
しかし、なぜそのような強力な噂や印象が生まれたのでしょうか。それには**薩摩藩の「桁違いの資金調達力」と「贋札(にせさつ)にまつわる黒い歴史」**が関係しています。
### �� 薩摩藩の「本国からの潤沢な資金供給」
薩摩藩は調所広郷の改革以来、琉球貿易や砂糖の専売で莫大な富(密貿易による蓄えも含め)を有していました。さらに、長崎などの商人を経由して最新鋭のアームストロング砲やスナイドル銃を大量に購入できるほどの信用と資金調達ルートを持っていたため、前線でも「お札(あるいは手形)を出せば、すぐさま本物の金銀や物資に換わる」という圧倒的な経済的信用を誇っていました。
### �� 幕府の経済を混乱させた「偽銀・贋札」の過去
薩摩藩は、戊辰戦争へと至る前段階(慶応3年頃)で、幕府の経済を揺さぶるために江戸の薩摩邸などで**「幕府の貨幣(二分金など)の贋造(にせがねづくり)」**を組織的に行っていたことが知られています(西郷隆盛の指示による撹乱工作の一環とも言われます)。
この「薩摩は裏でお金を偽造して調達している」という幕府側の恐怖や噂が、のちに「官軍は前線で紙幣を自前で刷って使っているのではないか」というイメージに繋がった可能性があります。
### �� 諸藩による「太政官札」の密造事件
戊辰戦争の最中から直後にかけて、戦費の負担に耐えかねた諸藩(有名なところでは福岡藩の「太政官札贋造事件」など)が、自領内で新政府の太政官札を秘密裏に密造・印刷して流通させるという大事件が実際に起きています。
> 電球 **まとめ**
> 白河口の戦いにおいて官軍が打った「官軍御用」の札の裏には、京都の新政府から次々と送られてくる**「刷りたての太政官札」**や、豪商から調達した巨額の軍資金が存在していました。
> 薩摩藩が印刷機を引っ張って進軍していたわけではありませんが、**「本国から湯水のように湧き出る資金力」**と、**「必要とあれば貨幣の偽造すら辞さない割り切った経済戦術」**の記憶が、後世にそのようなダイナミックな語り口(発行機を持ち歩いていた)として伝わった一因と言えるかもしれません。
Gemini
29 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2026年06月>
日 月 火 水 木 金 土
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930