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2026年06月20日17:35

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 6月10日に初戦小峰城が会津側に。20日激戦官軍奪還。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=pfbid0WobpgksD9xefaLQHxWPeocTUapU6kCWz3FQJK47iUeqvQhKu6AH25RczoBjFjcDdl&id=61583870434499

戊辰戦争何があったかシリーズ35

今日は白河口の戦いの佳境です。
我々會津藩、奥羽越列藩同盟の藩士に多大な被害者が出てしまいました🪦
供養のためにも是非コメントで話し合い、拡散していただけたら幸いです顔(願)🏻‍♂
先人がいたから今の私たちがいます。
『義に死すとも不義には生きず』という精神のもと義のため戦いました。そして戊辰戦争はこれから大きな戦いに向かいます。

交戦戦力現在の市町村
新政府軍側
鹿児島県鹿児島市、高知県高知市、山口県萩市・山口市、岐阜県大垣市、埼玉県行田市、栃木県大田原市、徳島県徳島市、滋賀県彦根市、群馬県館林市。

奥羽越列藩同盟・旧幕府軍側
福島県会津若松市・二本松市・白河市・相馬市・棚倉町・福島市・新選組、宮城県仙台市、山形県米沢市

奥羽越列藩同盟での総督、隊長級の死者
会津藩
横山主税、海老名衛門

仙台藩
坂本大炊、姉歯武之進

棚倉藩
阿部内膳

6月20日――会津の「南の盾」が破られた日

白河口・五月朔日の大戦

6月20日。戊辰戦争当時の暦では、慶応4年5月1日/1868年6月20日

この日、白河小峰城をめぐり、会津藩・仙台藩・棚倉藩・二本松藩・旧幕府兵などの東軍と、薩摩藩・長州藩などを中心とする新政府軍が激突しました。

白河は、関東から東北へ延びる奥州街道の要衝。ここを突破されれば、会津へ通じる南の道が開かれます。

会津にとって白河は、単なる一つの城ではありません。

故郷を城下から遠く離れた場所で守る「南の盾」

だったのです。

戊辰戦争が始まった当時、白河藩主だった阿部家は転封され、白河は藩主不在の幕府領となっていました。戊辰戦争勃発後は新政府領となり、小峰城を二本松藩など近隣諸藩が守備します。

しかし、閏4月20日、現在の6月10日、会津藩と旧幕府兵が小峰城を攻撃。守備兵は少数で、一部の藩は会津に同情的だったため事前に退去し、城は会津側に占領されました。この戦闘では両軍が放火し、城内の建物の多くが焼失します。

背景には、新政府と奥羽諸藩の決裂がありました。

仙台藩・米沢藩などは、初めから全面戦争を望んでいたわけではありません。まず会津藩の赦免と寛大な処分を求めました。

しかし嘆願は実らず、会津追討を主張した奥羽鎮撫総督府下参謀・世良修蔵が仙台藩士らに殺害され、政治交渉は急速に武力衝突へ変わっていきました。

白河には、宇都宮で負傷した土方歳三に代わり、山口二郎と名乗っていた斎藤一が、新選組約130人を率いて入城。閏4月25日には、白坂方面から迫った新政府軍を撃退します。

さらに会津藩家老・西郷頼母が白河口総督、若年寄・横山主税が副総督となり、仙台・棚倉などの援軍も集結。

東軍は約2500〜3000人、新政府軍は約700人。

兵数だけなら、東軍が三倍以上で圧倒的に有利でした。

ところが5月1日の早朝、新政府軍は白河南方の白坂から、兵を三隊に分けて進撃します。

中央隊は小丸山を占領し、東軍が守る稲荷山へ激しい砲撃を開始。さらに多数の隊旗を立て、そこに新政府軍の主力が集中しているように見せました。

東軍が稲荷山へ援軍を送り、守備兵力を集中させた瞬間――

新政府軍の左右両隊が、手薄になった雷神山と立石山へ迂回して攻撃。

正面で敵を引きつけ、その隙に側面を破り、退路を脅かす巧みな陽動・包囲作戦でした。

東軍は人数では勝っていました。

しかし、会津・仙台・棚倉・二本松・旧幕府兵などが集まった混成軍で、藩ごとに指揮系統、武器、訓練、戦い方が異なります。全軍を一つの意思で動かせないという弱点を抱えていました。

一方、新政府軍は少数でも指揮をまとめ、洋式銃砲と機動力を生かします。

稲荷山を中心に、すさまじい銃砲戦が続きました。

東軍は正面と左右から攻められて陣形を崩し、会津藩副総督の横山主税も、稲荷山の裏手で戦死します。

東軍はこの一日だけで、約400〜700人が戦死したとも伝えられています。数字には史料による幅がありますが、白河口最大の激戦だったことは間違いありません。

そして正午過ぎ――

新政府軍は白河城下へ突入し、

小峰城本丸に錦旗を掲げました。

会津の「南の盾」は、わずか一日の戦闘で破られたのです。

この敗北によって、新政府軍は東北へ進撃する重要拠点を獲得しました。

東軍はその後、七度にわたって小峰城奪還を試みます。しかし指揮の不統一などから、ついに城を取り戻すことはできませんでした。

戦火はやがて棚倉、二本松、そして会津若松へと近づいていきます。

白河口の戦いは約100日間続き、死傷者は1000人以上とされます。犠牲者には武士だけでなく、農民や町人も含まれていました。

それでも白河の人々は、東軍・新政府軍を分けることなく戦死者を弔い、現在も市内に残る墓碑や慰霊碑を守り続けています。

今日6月20日は――

兵の数だけでは戦争に勝てないことを示し、会津戦争の流れを大きく変えた日。

そして同時に、

敵味方を越えて死者を弔う、白河の深い「仁」の歴史が刻まれた日
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