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2025年11月29日10:10

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その殺人には一生を賭けるだけの値打ちが殺人者にはあるのだよ

■「快楽のための殺人は一生かけるだけの値打ちがあるのか」 “京都市・薬剤師殺人事件”で長女失った父親が講演 犯罪被害者支援イベント 東京・渋谷区
(TBS NEWS DIG - 11月28日 19:46)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=266&from=diary&id=8574572

タイトルだけだと確実に殺人肯定扱いされそうですが、1995年頃からちょっと流行ったプロファイリングブームや、猟奇殺人者などの解説シリーズなどのあった時代にそれらを読んでると『快楽のための殺人には何物にも代え難い価値がある』のが快楽殺人って事になるので、被害者のこの問いかけ事態が快楽の殺人を求める存在には全くの無価値、なんの値打ちもない戯言にしかならんのです。

そもそも快楽殺人はその行為が至高の快楽である為にそれを成したら他に快楽が生まれないってのがあるそうですね。
SEXも美食も、また可能な限りの悦楽であり得る酒池肉林の宴や贅沢な生活にも全く魅力が感じられないそうです。

最近のフィクションでよく書かれる快楽殺人者の「全ての欲求を満たしたいから殺す」と言った様な動機は世間の様々な快楽を知ってる上で行われていますが、そう言うものに最初から魅力も誘惑も感じない、ただ命を奪う事のみが快楽だったりする様ですね。

快楽のための殺人が復讐や報復だった場合にはそこで主人公やらに諭されますし、それらは現実に起こった事件などの“一般的な人にわかりやすい事例や部分を拾って”書かれてきてるので、そうなってくるみたいですね。

実際の快楽殺人の心情に近いのは手塚治虫の「ペーター・キュルテンの記録」なんかがそうかもしれません。

じゃあ猟奇殺人や快楽のための殺人は万民には理解し得ない類のものか?となるとそれも違っているそうで心の奥底の深い部分には誰もが快楽の為の殺人、あるいは殺しへの欲求はある、なんて言う説もあったりします。
多くは、暴力や戦いなどを社会における安全の為に封印した社会を構築して人類社会を維持してきましたが、この衝動は生きていく上での狩や漁などの動物から人になっても残った食に関する本能的な部分とも連動するし縄張りや生存なども本能とも関わる部分であって、それをうまく昇華出来ていったら例えばスポーツでの結果を出したり、競走ごとに関して優秀な成績を収めるなどになる、なんて言う事も言われていました。

実際にはもっと複雑ですが、人が持つ動物の要素が関係はしてる様ですね。

その為、社会においてまともである普通であると言うことになる為には、それらを抑えて群として同調する必要があるなんて事でした。

また同調と言うとその圧力、同調圧力と言う話になると思うのですが、日本が同調圧力が強いなどはマスコミで言われてそう思っていたり日本を非難する為にそれを言う人もいますが、実際には宗教による倫理や基本、規則がありそれが厳しかったキリスト教文化圏の方が同調圧力は大きいそうです。

宗教が生活と社会の全てを抑えている様な状況ですから、抑圧や規制が多く宗教の場となる教会が絶対だったりする事で不自由が多く発生するのだそうです。
その為、生きる為の猟も神に許されてる殺しとなりますし牛や豚など家畜は神がそう作ったと言う理由づけで殺します。

そう言う中で作られた西洋的な精神基盤では、神による摂理に反する者を殺す事も正義になるので異端審問や魔女狩りやそれらに類する死は快楽/悦楽を伴った娯楽として機能したと言う話になるようですね。

時代が進むとそう言う殺生は暗黒時代の娯楽のない世界での因習となりますが、長く培われた精神的な土壌によってまた、規範としての宗教がある為に様々な抑圧と偏見が作られていくことになります。

その中で抑圧に対する、快楽も発露は抑えられていたあるいは押さえつけていた何かへの反動ですから人生を賭けるあるいは失われた自分を癒す為の快楽ともなるそうです。

日本だとと言うか北東アジア圏として見るとそう言った一般人の抑圧からの逃亡の快楽殺人は少ないと言う話でそれにはなんだかんだで酒が飲める社会だったり、性的に奔放だったりと中華文明の社会においても大衆への娯楽を無くすような抑圧が無かったから何て言う話もあったりはしました。

近代で西洋文化圏で、女性の快楽殺人者や無意識の殺人者みたいなのが多かったのは女性への抑圧などがあるからと言う事も言われてはいました。


じゃあ現代の快楽の為の殺人もそうなのか?と言うとそうとも言い切れない、少なくとも1980年代以降は変化があると言う事が言われてます。

その理由には虚無感による物と、充実感の欠落が言われていたりします。
充実感の欠落と虚無感は同じ様に思えるにでしょうが違う様で、虚無感は何も行う気がない、目的も夢も何も出ない感じだそうですが、充実感の欠落は何をしても満足感が湧かないことにあるそうです。
言い換えれば成功体験、成功感の欠落でしょうか?

理由は様々にあるようですが共通の要因は褒められる事の無さだそうで?
否定される事などが続き、自分が成長に伴ってそれが空虚となる中で、唯一結果として見ることができるのが命を奪うこと、殺しと言う風になっていくとそれが快楽と転じていくとか。
ただ虫や小動物、猫や犬といった中型の動物にエスカレートしていくとより大きな命を奪う事への渇望は出てくるそうで、それなら猟師になるか漁師にでもなれば充足感が得られたかもしれませんが、社会のモラルは無益な殺生を批判し、猟や漁を野蛮とする空気も強くなるとそれは叶えられない欲求、死んでも得たい快楽となっていく様ですね。

それらは米英欧の西洋キリスト教文化圏での歪に進んだ博愛精神や、人権意識(人種差別してんのにねw)と言う社会では大きく影響してた様です。

日本など北東アジア圏では抑圧の多い支配層や武士などが殺人の為の殺人、殺人が悦びになると言うのが殆どだったとの事ですが、第二次世界大戦後の変容で西洋風(連合国風とも)の規範を取り入れようとしたり受験戦争や、様々な規制を海外に言われて取り入れてから殺人への渇望が増えたとも言いますし、学校教育の左傾化による社会主義的管理教育による抑圧が大きくなってきて快楽の為の殺人を求めると言う人が増えたなんて言う話もあります。

そう考えると思想の戦い、冷戦の残した負の遺産って言う考えもできますし、東西の思想の圧力による犠牲者ともなりますが生まれ出てくる構造はキリスト教と他の宗教の諍いによる中世暗黒時代と変わらないと言う感じはあります。

で、これら快楽の為の殺人を抑えるには何が必要か?と言う話では虚無感の払拭と充実感の提供みたいな話もありはしますが、それを自ら行える社会環境の構築って言うのが必要だと言う事になる様ですね。
手っ取り早いのは景気の回復ですが、それをするには30年余りの経済成長の停止は影響が大きすぎると言うこととマスコミが社会を支配する存在でいたいが為に、政治の不安定や庶民や現役層の不遇も無視して時に政争の具に都合良く使うと言うのも変えていく必要はあるでしょうし、教育や精神医療の場に思想や信条や政治主張を入れないようにして対応していく必要がある、なんてことがもう長い間現場では言われてるようです。

果たして快楽の為の殺人に価値を失わせる事ができるかどうか?
みたいな状態ですが、ニュートラルな立ち位置のノンポリな多くの市民を卑下する政治活動家や社会活動家を批判出来ないうちは難しいでしょうねえ。
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