あれはいつだったか、原野栄二先生が東京にある弘文堂に中曾根康弘が関係しているとおどろれたのは。
原野栄二先生は、戦前、戦中の弘文堂の編集長で、アテネ文庫、教養文庫、西哲叢書等を刊行されてこられた。
そもそも原野栄二先生を弘文堂の編集長に推薦されたのは、下村寅太郎先生で、その意図は弘文堂に西哲叢書を刊行させたかったからであったらしい。
原野栄二先生は、東京帝国大学文学部哲学科美学を卒業されている。そして武者小路実篤の新しい村に参加したが、実篤の奥さんと喧嘩をして新しい村を飛び出して京都帝国大学大学院に席を置くことにされた。
しかも同人誌「呂」「河」等を手掛けておられた。そんな原野栄二先生は弘文堂の編集長にはもってこいの人物だと下村寅太郎先生にはそう思えたのだろう。
しかし終戦の日、原野栄二先生は弘文堂の編集長を辞められた。そしてその後戦争犯罪者として京都帝国大学を追われた。公職追放になったのだ。
そして原野栄二先生は戦後の弘文堂がどうなったのかについては一切かかわっておられない。原野栄二先生が刊行された西哲叢書もどこまで刊行されたのか、知らないと言っておられた。
戦後の弘文堂は内紛が起こり、その結果、創文社と未来社ができた。創文社に戦前の弘文堂の書籍の新版が多いのも、弘文堂の内紛の結果、退職金の代わりに本権を受け取っていたからである。
原野栄二先生は、このような経緯は知っておられたようだが、戦後弘文堂が東京で再生したということはご存じなかったようだ。いや、戦前の京都にあった弘文堂と戦後東京にある弘文堂は全く別の出版社だと考えておられたようだ。
そして戦後の弘文堂が中曾根康弘や読売新聞社社主の渡辺恒雄によって再建されたということは知らなかったのだ。
その後、原野栄二先生は、燈影舎という一燈園のなかにある出版社の編集参与として関わられることになった。それは西谷啓治先生と下村寅太郎先生を燈影舎の最高顧問とし、そのお二人が編集長として原野栄二先生を推薦したことにあった。
しかし創文社も燈影舎も出版活動を辞めてしまった。そこの刊行書籍を買うには日本の古本屋で探さねばならなくなった。原野栄二先生が生きておられたら、なんと言われるだろうか。ふっとそんなことを考えた。
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