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2023年05月31日06:48

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アルメニアにとって、もはや重しと化したアルツァフ共和国とANCA

ソ連崩壊後のアルメニア政権は、アゼルバイジャンと戦争を行う一方で、さらに市場経済導入も行わないといけないという、非常に困難の多い政策を行うことになります。

しかもソ連の崩壊で、原材料の供給地及び製品の市場を失うことになります。
つまりソ連時代には、たとえば、カザフスタンから皮をもってきて、アルメニアで靴にして、それをロシアに出すというように、分業体制になっていましたから、ソ連という国が崩壊するということは、同時に経済基盤そのものも崩壊してしまうということだったのです。

こういう厳しい条件下で経済復興を行わなければならない事態に直面したペトロスィアン大統領は、政策を遂行するに当たって、在外のアルメニア人の専門家を積極的に利用しようと考えました。
たとえば、アメリカ育ちのラッフィ・ホヴァニスィアンという、有名な歴史学者の子供を外務大臣にするとか、あるいは、イスラエル生まれのセブフ・タシュジアンをエネルギー・石油大臣にするとか、そのようなことをして西側からの援助を受けやすいようにしました。

さらに国内の政党対策としては、共産党は風前の灯だったということもあって、非合法化までする必要もなかったのですが、それに対して、ダシュナク党と呼ばれるアルメニアの民族政党とは厳しい対決を見せました。

1992年 5 月にアルメニア本国とカラバフとをつなぐラチン回廊を完全に武力制圧して、アルメニアのものにしました。
この時、大統領のカラバフ対策は弱腰であるという批判をしたので、テル=ペトロスィアン大統領は、1992年にはダシュナク党の議長であったフライル・マルヒアンを国外追放、1994年12月には、ハンバルツム・ガルスティアンという、元のエレヴァン市長が暗殺された事件をうまく利用して、ダシュナク党そのものも禁止しました。
こうしたやり方が非民主的だという批判があって、テル=ペトロスィアンの人気は下がっていきました。

さらにペトロスィアン大統領にとって逆風になったことがあります。
それまでアメリカには在米アルメニア人への配慮があって、この問題に関しては比較的アルメニア側の肩をもっていたのですが、1994年秋、アゼルバイジャンとの間で交わされた「世紀の契約」を境に、政策を転換します。

アゼルバイジャンの石油カードにしたがって、どちらかというとアルメニアに対しては、厳しい態度を取るようになりました。
そういうこともあったために、アルメニアにとって、カラバフは徐々に負担になってくるということになりました。

さらに1998年になりますと、大統領はOSCE(欧州安全保障協力機構)の和平案にしたがって、ナゴルノ・カラバフを除く全アゼルバイジャン地域からアルメニア軍を撤退させて、ナゴルノ・カラバフの地位については改めて交渉を行うという案を受け入れました。

≪そのため援助を確実にするためには、カラバフがアゼルバイジャン領になっても仕方がないということを言ったのです。≫

これが、閣僚から強い批判を浴びて、側近が次々と辞任したために、2 月 3 日に、テル=ペトロスィアンは大統領を辞任しました。



因みにカラバフはアゼルバイジャンから独立するということであって、本当はアルメニアに併合されることはなかったはずなのに、このカラバフにあるアルツァフ共和国と言う「外国」で大統領をやっていた人がいきなり本国にやってきて首相になるという摩訶不思議なことが起こったのです。

2003年に大統領選挙の際に、アメリカ人だったラッフィ・ホヴァニスィアン元外相がアルメニアへの帰化が裁判所で拒否されることになります。
つまり、ホヴァニスィアンはアルメニア人ではないとされて、そのために立候補できなくなりました。
カラバフ人のコチャリアンはアルメニア国籍問題が不問に付されたのに、ラッフィ・ホヴァニスィアンは国籍取得が却下されたというのは、非常におかしなことです。
しかし、実際政府の閣僚名簿を見てもそうなのですが、アルメニアの政権の中で、旧ソ連の他の諸国出身のアルメニア人は、今でも政権の中にいるのです。ところが西側の出身のアルメニア人たちは、現在のアルメニア共和国の閣僚の中からは姿を消していまして、2008年では西側出身者といえば、シリア生まれのヴァルタン・オスカニアン外務大臣ただ一人です。

国立情報学研究所よりコピペして編集
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