イランについて4回目。
アタシがイラン映画を見て、「これは日本だわ」って思う理由の一つが人々の行動規範に「お天道様が見てて、悪いことをすると罰が当たる」ってのがあるところだと思うのよ。アメリカではない。ま、日本、別の面では「人の見ていない所では酷いことをする」って人もいると思うけど、この「罰が当たる」の行動規範はある程度浸透してると思うのだけど、どうかしら?
アシュガー・ファルハディの最高傑作、別離で、流産してしまうお手伝いさん。「突き飛ばされて流産した」と最初は言ってたのに、和解金をもらう段になって、「実は・・・・」と言い出して、「ここでこのお金を貰ったらアッラーが見てて一人娘に罰が当たるかもしれない」とお金を貰うことを拒否するのよね。でもお金に困ってる旦那は「貰っとけばいいだろう」と喧嘩。
あぁ、これ、日本でもありそうよね、って思ったわ。映画自体は、よくできた羅生門のリメイクだし。ってか、アタシ的には三船も京マチ子も大声上げて叫ぶ黒澤映画より静かに話すこの映画の人々の方が共感が持てるわ。
イランは日本のカウンターファクチュアルだと一昨日も書いたけど、日本人の日本教という感じの「宗教」とイラン人の回教という「宗教」、行動規範として似ているのでは?というのが映画を見ての感想。
で、ちょっと前にツイッターで見た、1911年、新渡戸稲造がコロンビアで行った講演の最初が「日本人はとても宗教的な国民です」というやつ。日本は無宗教の国と言われてるけど、行動規範としてもお天道様、ってのは宗教と考えていいと思うわ。
ま、イランも日本も実は「そんなことすると罰が当たる」という感覚は実は支配層が民衆を支配するために考え出した「都合のいい言い訳」なのかもしれない、という疑問はあるけど、イランはそれでも革命が起こったものねぇ。日本人も「死ぬ時、お天道様に向かいあった時に後悔のないように死ぬ」ために子孫に残す社会を良くしようとして行動する人が出てくるのかしら?
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