昨日「ヨビモドス(
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981448415&owner_id=512618)」と言う日記を書きましたが、ではこの各陣営において去っていった「普通の日本人」てのは帰ってくるのか?て言うと帰ってこないでしょうね。
既に、政治運動や社会運動などの【あまりに先鋭的、排他的になる言論】というモノの実態に呆れ返っているし、昨日述べた様な《害にしかならない無知な賢者》とも言う様な存在に対して、拒否感を通り越した嫌悪感を抱いているからですよね。
右派であれ左派であれ、思想や心情、政治的な主張の違いはあれど、相手陣営的な人を排除したり、殲滅したがるような人は少ないし居ないといっても過言ではないのが「普通の日本人」であって、日本で政治と宗教の話がタブーになってからは、居酒屋政談もめっきり減っていると思います。
学生運動の気分が抜けない、またはサヨク活動の過去の状況に酔いしれてる様な人達がまだまだ政治を語って[愚民を啓蒙]しようとしますけれど、そういうのとは違う、自分たちの生活や人生、仕事、収入や子育てなどの身近な問題から政治を考える人達には、うざいだけだったなんてのはあるんですね。
政治や宗教の話がタブーになったのも基本的に戦後の話だったりしまして戦前(第二次世界大戦前)は、天皇陛下への批判であってもあえて進言申し上げる的な形でご批判ご容赦願いたいってあれば、大体Okな面もありました。
でなければ石原莞爾なんて存在すら許されないでしょう。
また、国家転覆論や破壊、テロに繋がる現説を流布しなければ政権の批判や国家の改善、改装における構想なんてのを練っていても別にそれは問題ない。
一応、立憲専制国家なんで共和国的な存在でしたからね。
でなければ、明治後期〜昭和初期の様々なデモクラシー論なんて存在しませんし。
実際、共産党だって存続できている時点で弾圧があったかっていうと怪しいとは言えますよね。
なにしろ、弾圧されていたならあの時代に数が少なく死刑も容易だった事から存続が島国日本で可能な訳がない。
当時の共産党はマルクスやレーニン、スターリンなどの過激な階級闘争を主としている集団が主流派だったために、革命テロリストとして見られていた訳ですし、その点は日本の共産主義も同様。
転じて、社会改良主義、フェビアン主義などの存在があってそこを日本共産党がそうであったかの様に言って特高の悲劇を吹聴してるといえるのですよね。
社会改良主義は日本では後に民主社会主義と言う形で動きますが、まあ、今の所影が薄いです。
で、長々となんでこんな話をしたかと言うと、このフェビアン主義や社会改良主義というのが戦後も戦前もというか日本における日本人の政治感といえるからなんですね。
この社会を改良していこうと言う事で、大きく変わらなくても良くなる小さい改良をしちゃうぜ!(民間人だからな!)的なモンで動くと言う事ですから、国家がどうの、国がどうの、世界がどうのはあまり関係ありません。
多くのふつうの日本人は「みんなで幸せになろうよ」だった訳ですから、そこに悪の安倍を倒せ!とか反日政党の危機を知らせて覚醒させるってのは正直「しらけるんです」。
つまり、日本における政治の闘争は常に穏健な社会改良主義と、社会主義的な資本主義によって動いていたから、経済は統制型に近い事由資本、社会は個々の責任と自覚による自由主義、となっていた、と言う状態でうまく回っていた訳ですよ。
高度経済成長やその後の経済の安定(オイルショックなどはあれど)や、バブルといったものは、経済をある程度国や行政が統制する事で、この災害の多い島国日本!で安定した社会と国を動かしていったからこその、繁栄と言っても過言ではないのですよね。
それに対して日本共産党はアメリカ追従の悪の資本主義とか言って被害者ポジを維持してましたけど、だったら国政に参加できませんよ?てなもんです。
この過激なのは共産党(と当時の社会党)の極左テロや極左ゲリラと言う存在による破壊活動があった過去、また現在もその様な存在がいる事がある左派系への危機感から政治に声を上げたふつうの人々は、では実際どうなのかを知ってしまう訳ですよ。
右派に行けば過激な極右暴力団的存在がいましたし、その任侠風を演ずる人もいました。
左派に行けば美辞麗句で暴力肯定な存在の跋扈。
これで、政治を語る社会を考えると言ったことがまともにできるかっていうとできません。
特に左派、サヨク系はこの過激路線を邁進していってしまってますから、余計に過激であり暴力的であるんですね。
この辺は、思考が古いと言えます。
社会を変えるのは怒りと言う、感情の発露でないといけないが故に、しばき隊などがでる頃には町中での演説ですら周辺にいる人に対して「怒れ!もっと怒れ!怒れ!」と呪詛の様に言い続ける人達が目立った訳ですよね。
基本的に日本人は温和な方ですけれど、戦闘民族の血は流れているので無意味に喧嘩する事を避けます。
この辺は犬やネコに社会に近いかもしれませんが、死ぬまで戦うのが怒りによる闘争という本能的な理解をしてるので、対話方式を望みますがそれにだって限度があります。
攻めてくる武装集団に対して、無抵抗に話し合い、酒飲もうぜ!は通用しない訳ですからやはり非現実的、非社会的な存在には嫌悪をもってしまうのですね。
それが目立ったがために野党の支持率は今も地の底を這っている状態なんですが。
そういう、過激でどちらかと言うと嫌悪感しか持てない政治や社会に対する活動家や運動家なんてのを拒否するのは当然でいま左派系列ではアクティビストなんて言ったりしてますが所詮カタカナにしただけじゃん、と余計呆れられている訳です。
そんな、右派左派玉石混交むしろ産廃が目立つなんて状態で政治や社会を語る、変えるための運動の場に帰ってくるなんてのは、まずありえず選挙による対応や少年や青年なら政治の世界に直接飛び込むわwなひとが増えてるってだけの話なんですよね。
その人達に話を聞いてもらえるかどうか、が鍵なんですね。
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