「むろんごく常識的に、いわゆる中世的世界と精神にとって、すべての照準は神に合わせられ、ここから眼差しはもっぱら天上的世界へと注がれ、この地上的世界は軽視され捨離されるべきとみなされてきたのに対して、ルネサンス期になると逆にこの現実の世界、この世(生)こそがむしろ直視され、また探求されるべきものとなってきたと、一応は言うことができよう。しかしそうした変化ないし転換は、そもそもいかにして起こり得たのか。そのような新たな関心や探求は、実際にいかなる想念や思想に導かれて生じて来たのか。
このような場合、私にはこの時期の思想家たちによってしばしば語られる「神の書物」(libri Dei,BÜcher Gottes)としての自然という考えが、少なくとも一つの大きな誘因になっているように思われる。ここには自然というものを、神によって書かれ、神によって与えられた「書物」として受け取り、そのうちに書き込まれ、書き表された神の筆跡ないし痕跡(vestigium Dei,Spur Gottes)を読み取り、読み解いて行こうとする意図が強く表れている。言うまでもなく、自然という書物は、いわゆる「聖書」という神によって与えられ、しかも文字で書かれた書物に対応するものとして言われているが、今やその「聖書」と並行して、あるいはむしろ「聖書」以上に、自然というこの具体的・現実的な書物に目を向け、そこに神の現われと神的メッセージを読み取って行こうとすることが、いわゆる時代全体の意向あるいは傾向として強く現われいきているようにかんがえられる。」
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上記は、薗田担著『無底と意志―形而上学 ヤーコブ・ベーメ研究』第三部第五章「ルネサンスの自然観について」からの引用である。
ルネサンスは、哲学史の教科書では、それまでのキリスト教的神中心の世界からギリシア的な人間中心の世界への劇的な大転換期だと言われてきた。しかしそうではないようである。
薗田担氏が注目しているように、神によって書かれ、神によって与えられたと考えられる「神の書物」を、ルネサンス期の思想家たちは「聖書」からさらに広く「自然」へと広げただけのことだったのかもしれない。
もっと言えば、従来の哲学史の教科書にあるように、ルネサンス期の思想家たちにとって、「自然」は神に対立する概念ではなく、神によって創造された物であり、神によって書き記された痕跡なのである。つまりルネサンス期の思想家たちにとって「自然」も神的なものの一部だったのである。
ルネサンス期では、未だ自然哲学と自然科学、神秘思想と錬金術とが混合された形で考えられ、ヤーコブ・ベーメも世界創造の「七つの性質」に硫黄、塩、水銀といった物質を上げているが、これらは当時の錬金術の基礎概念であって、現実のそれらの物質というよりも、むしろ原理的なものとして考えられていた。
ルネサンス期の神秘思想は、単に神との合一、あるいは神さえも超えた「無底」という神秘主義的な発想とともに、自然哲学、自然科学、あるいは錬金術とが混合されたかたちで登場してくるのであり、その代表がヤーコブ・ベーメだったのかもしれない。
わたしは、これらの薗田担氏の論述からもう一度神秘思想という観点から、ルネサンス期の思想家たちについて考えてみたいと思っている。
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