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2018年11月03日10:19

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「Silence=Death(沈黙は死)」

■杉田氏「不用意に表現用いた」 「生産性」寄稿に見解
(朝日新聞デジタル - 10月26日 19:45)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5349513

(私の視点)マイノリティー差別 「寛容であれ」誰に求めるか 尾辻かな子
)
 月刊誌「新潮45」8月号に、LGBTに関する杉田水脈衆議院議員の寄稿が掲載された。私がツイッターで、LGBTに対する間違った情報や偏見を助長する点を指摘すると、様々な反応があった。10月号では寄稿についての特集記事が掲載され、その後突然休刊となった。
 しかし、新潮社の社長声明にあった「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」にあたる部分の特定、編集のチェック機能不全に対する分析、再発防止策など、具体的な発表がないまま事態を収束することに懸念がある。このままでは、場を変えて同じことが起こるのではないか。
 この間、LGBTに関する正確な知識や土台となる事実がないままの水かけ論が多いように感じている。例えばLGBT差別がないという前提の議論は、内閣府の世論調査で18歳以上の約5割が差別があると考え、別の調査ではLGBT当事者の約7割が差別を感じている結果とはかけ離れている。学校・職場での困難や、婚姻の平等がないために同性カップルには相続などで異性間の結婚と同じ権利がない、といった現実を踏まえているとは思えない。
 この4、5年の新聞社などの同性婚をめぐる世論調査は、賛成多数の結果となった。賛成の割合は男性より女性が高く、若い世代は賛成が圧倒的に多いが、70代になると反対多数となる傾向がある。リベラル、保守という枠組みで賛成、反対を論じるのではなく、これらの事実を土台にして議論は出発するべきではないか。日本の国会議員は女性が少なく、若者も少ない。国会と社会全体の意識の隔たりともとれると思う。
 寄稿に対する自民党本部前での抗議活動などには、一部で批判が起こっている。LGBTの可視化のひとつであるパレードの開催についても、声をあげずに静かにしていてほしいという議論が当事者の間にもある。だが、その批判の先にあるものが、沈黙や行動の抑制を求めることであってはならないと思う。
     *
 民主主義社会では、投票行動のみが政治参加の手段ではない。声をあげること、デモをすること、署名運動をすることは、市民として当然の政治参加の行為のひとつである。アメリカでHIV感染が広がった際、市民が「Silence=Death(沈黙は死)」を掲げて行動した。感染症予防に本腰を入れない政府に対して立ち上がり、対策を求めた。黙っていたら、マイノリティーの存在は見えず、思いは社会に伝わらない。
 東京都立府中青年の家が同性愛者団体の宿泊を拒んだのは違法だとして東京高裁が賠償を命じた裁判も、声をあげた側をバッシングする風潮があった。マイノリティー社会も、そこにいる当事者も複層的である。ただ、声をあげることで社会の課題が認識され、行動することによって変化がもたらされるという側面を忘れてはならない。
     *
 「寛容であれ」。これは誰が誰に対して寛容を求めるかによって、文脈が変わる。差別を受けた側に寛容を求めることは、マイノリティーとして声をあげるのをためらう状況を維持することにならないか。こんなことで声をあげるのは間違っていると、沈黙や行動の抑制を求めることにならないだろうか。傷つき声をあげている人を対話的でないと非難するのは、筋が違う。寛容や対話は、差別や差別の扇動を許すことではない。
 権力を持つ者やマジョリティーから、周辺に追いやられた人やマイノリティーに発せられた差別的発言を指摘することにちゅうちょする社会は、差別の構造が強まっていく。さらなる暴論を許す土台をつくり、当事者は萎縮していく。それを止めるために、声をあげる、謝罪、反省を求める行為は、否定されるものではない。その過程を経て、対話のプロセスは始まるのではないだろうか。対話には、差別的発言で他者を傷つけない、根拠ある事実に基づいて議論する、という前提も必要だ。対立か対話か、という二項対立的な議論には違和感を抱く。
 当事者以外の人が声をあげることに否定的な言論が、社会運動の連帯の広がりを阻害することにならないか危惧している。「パレードへようこそ」という映画がある。サッチャー政権時代のイギリスで、ともに抑圧されていた炭鉱労働者とロンドンのレズビアン、ゲイ団体の友情の物語だ。ゲイに支援されたくないと拒否反応を示していた労働者とその地域の住民が、交流を通じて理解しあい、友情が芽生える。同性愛者たちによる支援集会に出席した労働運動のリーダーは、同性愛者たちの支援に感謝し、「巨大な敵と戦っているとき、どこかで見知らぬ友が応援してくれていると思うと最高の気分です」とスピーチした。後に、ゲイパレードに労働組合として参加する。
 社会運動は、様々な人々の連帯によって成り立っている。LGBTの課題は、社会構造の課題でもあり、ひとごとではない。
     ◇
 おつじかなこ 衆議院議員 1974年生まれ。2005年に同性愛者であることを公表。13年に参議院議員、17年に衆議院議員に当選。
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上記は、今朝の朝日新聞に掲載された、衆議院議員・尾辻かな子による「(私の視点)マイノリティー差別 「寛容であれ」誰に求めるか」という寄稿文の全文である。

わたしがこの尾辻かな子氏の寄稿文で注目したのは、下記の一文である。

�猝閏膽腟措匆颪任蓮�投票行動のみが政治参加の手段ではない。声をあげること、デモをすること、署名運動をすることは、市民として当然の政治参加の行為のひとつである。アメリカでHIV感染が広がった際、市民が「Silence=Death(沈黙は死)」を掲げて行動した。感染症予防に本腰を入れない政府に対して立ち上がり、対策を求めた。黙っていたら、マイノリティーの存在は見えず、思いは社会に伝わらない。/ 東京都立府中青年の家が同性愛者団体の宿泊を拒んだのは違法だとして東京高裁が賠償を命じた裁判も、声をあげた側をバッシングする風潮があった。マイノリティー社会も、そこにいる当事者も複層的である。ただ、声をあげることで社会の課題が認識され、行動することによって変化がもたらされるという側面を忘れてはならない。�瓠�

この一文にある、アメリカの市民が掲げて行動したという�燹孱咤蕋譯紕遑磽紂瓧庁紕瓧遙茵閉戚曚六燹法廰�という言葉がわたしの心をとらえた。

自民党衆議院議員・杉田水脈の�爍味韮贈圓六劼匹發鮖困泙覆ぁ△世�ら生産性がない�瓩箸いθ�言は、わたしにとって「相模原障害者殺傷テロ事件」の植松聖容疑者の「ナチスの優生思想」を連想され、人間を�狎源裟��瓩箸いΩ斥佞派床舛垢襪海箸坊磴靴な阿蠅魎兇犬拭�しかしその後も旧優生保護法下で行われた障害者といわれる人たちに対する�犇�制避妊手術�畛�件、ある域中央官庁における�狆祿下垳柩竸總�し�畉承住�件など、この国は本当に障害者といわれる人たちの�狄邑↓甅狎犬�る権利�瓩鯒Г瓩討い襪里�と考えされる事件が立て続けに起こった。わたしはその都度、障害者といわれる人たちの一人として怒りの声を挙げてきたつもりである。しかし杉田水脈の�爍味韮贈圓六劼匹發鮖困泙覆ぁ△世�ら生産性がない�瓩箸いθ�言を擁護する人たちは�犖析世亮�由�瓩鮟發砲錣燭靴燭舛慮斥佞鬚�き消してきた。

尾辻かな子氏は次のように書いておられる。

�燹峇架討任△譟廖�これは誰が誰に対して寛容を求めるかによって、文脈が変わる。差別を受けた側に寛容を求めることは、マイノリティーとして声をあげるのをためらう状況を維持することにならないか。こんなことで声をあげるのは間違っていると、沈黙や行動の抑制を求めることにならないだろうか。傷つき声をあげている人を対話的でないと非難するのは、筋が違う。寛容や対話は、差別や差別の扇動を許すことではない。/ 権力を持つ者やマジョリティーから、周辺に追いやられた人やマイノリティーに発せられた差別的発言を指摘することにちゅうちょする社会は、差別の構造が強まっていく。さらなる暴論を許す土台をつくり、当事者は萎縮していく。それを止めるために、声をあげる、謝罪、反省を求める行為は、否定されるものではない。その過程を経て、対話のプロセスは始まるのではないだろうか。対話には、差別的発言で他者を傷つけない、根拠ある事実に基づいて議論する、という前提も必要だ。対立か対話か、という二項対立的な議論には違和感を抱く。��

わたしは、尾辻かな子氏の�爿燹峇架討任△譟廖�これは誰が誰に対して寛容を求めるかによって、文脈が変わる。差別を受けた側に寛容を求めることは、マイノリティーとして声をあげるのをためらう状況を維持することにならないか。こんなことで声をあげるのは間違っていると、沈黙や行動の抑制を求めることにならないだろうか。傷つき声をあげている人を対話的でないと非難するのは、筋が違う。寛容や対話は、差別や差別の扇動を許すことではない。�瓩箸いγ嗅召紡腓い忘酘阿垢襦�

「寛容であれ」とは、マジョリティーの側にいる人がマイノリティーの側にいる人に対して行われる行為であって、決してマジョリティーの側にいる人がマイノリティーの側にいる人に対して求める行為ではない。それはもはや�犂架騰瓩ぁ�はなく、�猴洌記瓩任△雖猊�殺�瓩任△雖猖塾廊瓩任気┐△襪里澄�

わたしは、かつて一度尾辻かな子氏にお会いしたことがある。尾辻かな子氏がまだ大阪府会議員だった頃、トランスジェンダーとして日本初の区会議員になられた上川あや氏の講演会を主宰されたときだったと思う。その時にわたしは尾辻かな子氏と上川あや氏にお会いすことができ、やはりマイノリティーの一人として社会に声を挙げていかねばならないと思い、その後、勤めていた会社での不当な�狢狄Υ�奨�瓩鮗�けた際、会社と交渉することができたのである。その意味でお二人との出会いは、わたしにとって大きく心の支えとなっている。

�燹‥�事者以外の人が声をあげることに否定的な言論が、社会運動の連帯の広がりを阻害することにならないか危惧している。「パレードへようこそ」という映画がある。サッチャー政権時代のイギリスで、ともに抑圧されていた炭鉱労働者とロンドンのレズビアン、ゲイ団体の友情の物語だ。ゲイに支援されたくないと拒否反応を示していた労働者とその地域の住民が、交流を通じて理解しあい、友情が芽生える。同性愛者たちによる支援集会に出席した労働運動のリーダーは、同性愛者たちの支援に感謝し、「巨大な敵と戦っているとき、どこかで見知らぬ友が応援してくれていると思うと最高の気分です」とスピーチした。後に、ゲイパレードに労働組合として参加する。/ 社会運動は、様々な人々の連帯によって成り立っている。LGBTの課題は、社会構造の課題でもあり、ひとごとではない。��

毎年、五月に東京で行われる�爛譽ぅ鵐棔次Ε僖譟璽畢瓩僕菁�こそは参加したいと思っている。そのパレードには以前わたしが務めていた会社のパースもあるというのでそのブースものぞいてみたいこともある。

尾辻かな子氏の寄稿文にあった、「Silence=Death(沈黙は死)」という言葉はわたしの心に深く突き刺したのである。

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