「死ななきゃ治らない」と気軽に言っていました、子どもの頃。私自身が言ったことはないと思っていますけれど周りは言っていたし、私も覚えていないけれど言ったかも。
恐ろしい真実ですよね。
認知症は「症」と名付けられているけれど、治る病気ではない。不可逆な変化です。
子がいない人はどうすればいいのでしょう? 誰に「孝行」してもらえば?
話を聞いてくれるなんて、そんな嬉しいことを、誰に望めばいいんでしょう?
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■子どもへの愛はある…専門家に聞く「認知症の親」への孝行とは
(AERA dot. - 05月15日 07:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=5110948
親への感謝を伝えること、それは自身が年を重ねるごとに強まる思いだ。しかし、親が認知症になってしまったら、薄れゆく記憶の中で何をしてあげられるのか。筑波大学准教授で精神科医の高橋晶さんに聞いた。
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多くの人は、年を取ると、性格が先鋭化します。頑固だった人はさらに頑固に、慎重だった人は融通が利かなくなる。話もくどくなり、子どもはいらだちを覚えることもあるでしょう。
親が認知症になると、外見は今までどおりなのに、中身が違ってしまったことで、子が喪失感を味わうことがあります。「理知的で聡明なお父さん」が子ども返りをしたような姿に子は傷つき、悲しむのです。
認知症になる親にも、今までできたことができなくなっていく喪失感がある。親としてのプライドは残っていて、現実と夢の区別がつかなくなる。ただ、認知症が進行しても、親の心の中には「子どもを愛している」という感情は残っています。
認知症のケアの一つに「回想法」があります。本人に自分の人生を振り返ってもらい、誕生から少しずつ話してもらうという手法です。これで元気になる方が多くいます。遠い目で「あのときはつらかったんだよ」なんて言いながら、喜んでいる。
親が認知症でなくても、子が親に回想法をすれば、親孝行になると思います。家族が聞いてそれを書きまとめる。家族が親の人生に感謝と尊敬の意を示す、子が親の人生を肯定してあげる行為です。
親が遠方で独り暮らしをしているなら、頻繁に連絡をしましょう。電話もなく、孤立感が強まると、具合が悪くなります。抑うつ状態にさせないためにも「自分は誰かの支えになっている」という役割を与えるといいでしょう。無視するくらいなら、心配かけるほうがずっといい。
「あと何回会えるかわからない」──それを念頭に置き、会える日々を大切に過ごしましょう。同じ話を聞かされても、「またその話?」でなく、じっくり聞く。一緒にいてあげるだけでもいい。その時間がいかに貴重か、あとになって実感するときがきっときます。
認知症の家族の介護をされている人の中には、日々の世話に疲れ、怒ってしまう人もいます。そんな自分を責め、苦しんでもいます。親孝行は100%と考えず、70%ぐらいのつもりでやりましょう。
※週刊朝日 2018年5月18日号
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(超耳)
>同じ話を聞かされても、「またその話?」でなく、じっくり聞く。一緒にいてあげるだけでもいい。その時間がいかに貴重か、あとになって実感するときがきっときます。
えー? ウソまみれじゃないですか? 強い疑念を覚えます。
「何もするな。聞くだけで話すな。いるだけで動くな」。
それは拷問っていうんです。「だけでもいい」とか言うのは非常に厳しいことをあたかもかんたんであるかのように装っていると感じます。もっといえば意図的に苦労の度合いを押し下げて言っている。
「介護が辛い? あなた何もしていないじゃん。話を聞いているだけでしょ?」
「一緒にいてあげるだけのかんたんなお仕事でうらやましいね」
こんなこと絶対に言えないでしょう?
だったら記事のような言い方をしてはいけません。
いつだったか、話がつまらない人の話題のときに言ったことがあります。
「ただ聞いてくれるだけでいい」などという残酷な要求をするな、と。アドバイスもさせない、改善案も考えさせない、そんな「聞く」は苦痛です。相当な苦痛ですよ。
>親孝行は100%と考えず、70%ぐらいのつもりでやりましょう。
もっと数字を下げられないものでしょうか? 介護者という善意の存在ができるだけ苦痛を少なくできるのが私はいちばんよいことだと考えます。被介護者の苦痛よりもね。
記事ではラクをしていいのが30%くらいです。
ラクをしていいというだけでも救いだから、反対するわけではありません。でもまだ数字が厳しいなあと思います。
多少強引に言い換えますけれど、お許しください。「介護者と被介護者の苦痛の割合が7:3」とこの場では解釈してみますね。これは、きわめて理不尽という気がするのです。
介護者が追い詰められてしまうと、待っているのは共倒れです。若者や子育てをしている人を締め付けることが破滅への最速の道であることと同じ。
ついつい、私たちは気持ちに素直になり、善意の猛威を振るうに任せて、弱者を最速で殺す方を選びがちです。誰でもかんたんに選ぶことができるだけに、その数は暴力的に多い。
ぜひ戒めてゆきたいですよね。背負ってくれる人を殺せば、背負われた者も死ぬ。弱者を最速で殺す残酷な選択は、いつも「気持ちに素直」という悪徳から生まれるんですから。
それにしても、繰り返しますけど、子がいる人ですら認知症になれば幸せに死を迎えることが難しい。子のない人はどうすればいいのでしょう?
まったく解が思い浮かびません。
ということは「解なし」が現時点での正答に仮置きされるしかありません。
それにしては、「みんな」はのんびりしているなーと感じます。
老いがゆっくりとやってくるので、キリギリスでいいんだよ、と思っているかのようです。いえ本当は愚かな私といえども知っています。確信しています。「思いさえしていない」んですよね。
それが恐ろしい。
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