地政学の大家マッキンダーの言う
「世界島(ユーラシア大陸)」の
東の端に存在する我が国は、
ユーラシアの数多の国々とは
全く異なる歴史を辿ります。
ユーラシア大陸の中央部、
ハンガリー、モルドヴァから
満州に至る長大な乾燥地帯、
いわゆるユーラシアステップ。
「文明の生態史観」で著名な
梅棹忠夫が「悪魔の巣」と
呼んだ地域ですが、
この厳しい乾燥地帯で
生きる遊牧民が、
時にぶつかり合い、
時には統合され、
周囲の農耕地帯に
溢れだすことで
歴史は動いてきました。
遊牧民は、
草を求めて常に移動します。
新たに見つけた草地に、
別の遊牧民がいれば、
即座に戦いです。
負けた方は滅ぼされるか、
あるいは吸収される。
時折、困窮した遊牧民、
あるいは勢力が大きくなった
遊牧民が農耕地帯に押し寄せ、
穀物や財や人の命を奪い去っていく。
農耕地帯にすむ人々も必然的に武装し、
「壁」を築くことで
遊牧民の侵入を防ごうとする。
もっとも、農耕地帯にすむ
農耕民族にしても、タンパク質を
牧畜により得ていました。
すなわち、羊や牛をはじめとする
家畜を飼うことで、
生きていくために必至のプロテイン
(ギリシャ語で「一番大切なもの」という意味)
を獲得してきたのです。
家畜は、飼いならすことができます。
すなわち、羊飼いが「主人」であり、
羊たちは「飼いならされた奴隷」です。
家畜文化には「支配」が不可欠なのです。
神が主人で、人間が奴隷。
人間が主人で、家畜が奴隷。
主人と奴隷。
すなわち、
生物に階級があるという考え方は、
キリスト教の根幹をなしています。
神、天使、人間、それ以外と、
キリスト教社会には歴とした「階級」があり、
それは打ち破ることが不可能な概念です。
コロンブスのアメリカ大陸到達以降、
スペインでは現地の住民を
「人間とみなすべきか、否か」で
大論争が起きます。
人間ならば、
キリスト教を布教するべき。
そうでないならば、
家畜と同じように
鎖につないで酷使すればいい、
という話ですが、
この手の論争が「真面目」に
行われたのが中世欧州なのです。
あるいは
「第零次グローバリズム」の世界です。
また、世界島では
頻繁に国境線を越えて
「異民族」が襲来します。
地平線の向こう側から押し寄せた
襲来者たちが勝利すると、
自分たちが「人間以下の存在」
すなわち奴隷と化す。
この手の歴史を、日本人は
経験したことがありません。
日本人はタンパク質を
主に魚介類から採っていました。
(宗教上の理由で、四つ足の動物を
食べることは禁じられていたのです)
魚介類は、「支配」することはできず、
単に「そこにある自然」から、
多少の分け前を頂くだけです。
日本国は他の動物を支配することなく、
長大な歴史を積み重ねてきたのです。
結果的に、家畜を「支配する」といった
文化とは無縁なままで、同時に奴隷文化が
根付くこともありませんでした。
我が国が世界で(ほぼ)唯一、
皇統を除き階級がなく、
奴隷を嫌悪する文化、
文明を築き上げたのは、
地勢的、歴史的な理由に
よるものなのです。
最近の世界は「人権」「平等」と
煩いですが、ことさらにその手の
綺麗語を叫ぶのは、日本を除く
「世界島」にその手の概念が
存在しなかったためです。
人権にしても、平等にしても、
初めから我が国にはありました。
奴隷制を持ったことがない日本人が、
「奴隷・階級制度」の歴史を持つ
欧米諸国が叫ぶ人権、平等に委縮する。
アホですか。
彼らは「人権」や「平等」を
持たないからこそ、
この手の抽象的概念を
殊更に主張するのです。
我が国は、
歴史的に国民が「皇統」を中心に
平等で、奴隷制度など持ったこともありません。
自国民、他国民を奴隷にするという考え方は、
日本には歴史的に存在しません。
さらには、「君主」であるはずの
皇統には、ろくな権力がなく、
早期から封建制が進化しました。
「他者を支配する」ことなしで
歴史を積み重ねたのは、
世界の中で我が国だけなのです。
この歴史的事実は決定的に重要です。
階級がなく、奴隷もない国家を長年、
維持してきた我が国の歴史は
誇るべきものですが、
「他の国はそうではない」という
現実を知らなければなりません。
我が国の国民が
「他の国の国民より優れいている」
のではありません。
「他の国の国民とは違う」という
「事実」を、日本国民は
いい加減理解する必要があるのです。
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