かつてヘーゲルは、「存在するものを理解することが哲学の課題である。何故なら存在するものは理性なのであるから。個人について考えて見れば、すべての個人は彼の時代の子である。哲学もかくの如くである、哲学とはその時代の思想の内に捕え来たったものである。何等かの哲学がその現在の世界から超越し得ると妄想することは、個人が彼の時代を飛躍し得ると妄想することと等しく愚かなことである。」と語った。では、このヘーゲルの言葉は何を意味しているのであろうか。それは、個人にせよ、哲学にせよ、自分が生きている時代の子として歴史的背景を背負って、歴史の中に存在する。換言するならば、個人にせよ、哲学にせよ、我々は歴史的制約を受けて存在するのであって、そのような制約を抜きして、その個人、その哲学を考えるとしても、それは抽象的なる考察に過ぎないということを意味しているのではないだろうか。
今年(2001年)の初夏、約六十年という歳月を越えて、高山岩男の『世界史の哲学』がこぶし書房から復刊された。復刊までに約六十年という歳月を必要としたのは、先の戦争に関する歴史的解釈に起因するのであろうが、このことは、『世界史の哲学』という極めて歴史的色彩をもつ歴史哲学書が歴史的背景を背負っていることを示しているのではないだろうか。では、個人にせよ、、哲学にせよ、歴史的背景を背負うとはいったい、いかなることなのであろうか。そしてこのことを我々に何を問いかけているのであろうか。この拙文では、このようなことを考察しながら、『世界史の哲学』という極めて歴史的色彩をもつ歴史哲学書はいかなる今日的な意義をもつのかを考察していきたい。
では、一九四二年に高山が『世界史の哲学』を世に問うた歴史的背景はどこにあったのであろうか。そのことについて『世界史の哲学』の序から読み取れるように思われる。「今日の世界大戦は決して近代内部の戦争ではなく、近代世界の次元を超出し、近代とは異なる時期を画そうとする戦争である。前のヨーロッパ大戦は、世界戦として画期的のものであったが、その根本性格に於ては近代内部の戦争であり、近代の延長たる性格を超出するものではなかった。ヴェルサイユ会議で成立し、国際連盟で確保せられた世界の秩序は、近代世界の原理を超克した新しい原理に立脚するのではなく、近代世界の原理をそのまま連続的に延長してできたものにすぎなかった。二十年の擬似平和期を経て、今日再びヨーロッパ大戦が勃発したのも、思えばその深い病根はここにあるのである。それ故、今次のヨーロッパ大戦は近代に終焉を告げる戦争であり、またそうでなければならない。このことは我が日本が主導者とする大東亜戦では極めて明白であって、何らの疑義をも挟まない。満州事変、国際連盟脱退、支那事変と、この世界史的意義を有する一連の事件を貫く我が国の近代的原理に立脚する世界秩序への抗議にほかならなかった。昨年十二月八日、対米英宣戦と共に疾風迅雷の如く開始せられた大東亜戦争によって、旧き近代の世界秩序を打破し、新たな世界秩序を建設しようとする精神は、愈々本格的な姿を現し、これは今日の世界史の趨勢にも動かすべからざる決定的方向を与えるに至った。世界史の転換がいわれるのは、今日の世界大戦がもつこの性格を捉えていわれるのでなければならない。この世界史の転換が世界史学にも転換を要請し、近代の世界史学に代って新たな世界史学の建設を要請し来るのは当然である。」
高山は、近代世界の原理を超克した新たな世界秩序の建設というところに、自分が生きる時代の趨勢を見出している。そしてその時代の趨勢は、従来の近代の世界史学に代って新しい世界史学を要請してくるのであり、高山が自覚した歴史的課題だったのである。まさしく高山が『世界史の哲学』を世に問う歴史的背景なのである。高山は世界史の哲学』を世に問うことによって、自分が生きる時代の趨勢が孕んでいる歴史的課題に答えようとしたのである。そのことは、「今日に於て世界史転換の主導的な役割を演じているもは、実に我が日本である。それ故、新たな世界史学の立場に立ち得る者は、近代世界史の秩序に与する者ではなく、却って近代世界視の秩序の崩壊を認識し得るものである。そしてこれが特に我が国に於て強く達せられ得るはずであることは、近代世界史が本来的にヨーロッパ世界史であり、その現代世界史への転換に主導的役割をなしつつあるものが日本であることより当然であって、ここに我が国の史学界に却って新たな世界史学の生誕しなければならぬ世界史的根拠が存すると考えられるのである。」と述べてあることからも読み取れるであろう。つまり高山は、自分が生きている時代が背負う歴史的背景を自覚しているとともに、そこに課せられている歴史的課題を担おうとする歴史的実存としての使命をも自覚しているのである。
では、高山はどのようにして『世界史の哲学』をもってしてその歴史的課題に答えようとしたのであろうか。高山は歴史哲学の根本問題の再考からそれを始めようとする。「歴史哲学の根本問題は、このような事実に対する認識の優位という根本前提や、歴史性即時間性とする根本前提を─殆ど自明の如く思惟せられて、批判せられることさえ少なきこれらの無意識的前提をば、徹底的に批判し、新たに<世界史>の基礎理念を確立するところに存すべきでないかと思う。歴史哲学の根本問題は世界史の基礎理念の確立にある、歴史哲学は世界史の哲学でなければならぬ─これが私の歴史哲学に対して抱く根本観念であり、またこれが現代の歴史的情勢そのものの新たに要求するところであると信ずるのである。」
高山によれば、事実に対する認識の優位という根本前提にせよ、歴史性即時間性とする根本前提にせよ、それらの根本前提にあるのは、ヨーロッパ世界をもってして《世界》とした近代の世界秩序に基づくものにほかならないことを指摘する。そして先に見たように、�犇畭綫こΔ慮桐�を超克した新しい原理に立脚する�瓩箸い�仕方として、�狷端貪�世界史�瓩箸いν�念を提唱する。つまり従来は《世界》そのものとしてみなされてきた、ヨーロッパ世界も実は特殊的世界史の一つに過ぎないのであり、そのことはヨーロッパ世界以外の非ヨーロッパ世界という、もう一つの特殊的世界史と相対するのであって、むしろ相対的な特殊的世界史の相互関連において、真の世界史が成立するというのである。
このように高山は歴史の本質を「世界史の中に存するものは凡て相対的なものであり、相対的なるが故に却って連関して世界史の発展を構成するのである。世界史は相対的なると共に絶対的であり、絶対的なると共に相対的である。世界史は絶えず発展進歩していると共に、その都度永遠の今から永遠の今へと飛躍的に連続している。世界史は完成と未完成との連結である。」と述べているのである。
高山は、『世界史の哲学』において従来の歴史哲学の根本理念に対して批判的考察を展開していき、新たな世界史学というべき歴史哲学を構築していくのである。その歴史哲学的思索とは、歴史そのものが常に現代を創造していこうとする建設的行為に参与していくことにほかならないのである。歴史の建設的行為とは、「常に絶対的な、永遠なるものに接し、永遠絶対のものを現在の刹那に実現しようとする。現在の創造的建設は絶対無に接する絶対の事実である。永遠を孕み絶対に支えられた<事>である。併しこのことはそれが同時に相対的な事実であり、現代という時代の事実であることを何ら妨げない。現代の建設は最も深き時代意識から生まれ出る。歴史意識は時代意識であり、その根抵に於て強い相対性の意識である。即ち、過去的な相対的事実と未来的な理想性との対立を、絶対無の刹那に於て相互否定的に綜合するものが、現代における歴史建設の行為、即ち現在の創造という一事に外ならない」のである。高山は、近代世界の原理を超克した新しい原理に立脚するという歴史的課題に答えていくという仕方においてこのような歴史の建設的行為に参与していったのである。
我々は、常にある特定の時代を行き、ある特定の民族の一員として、ある特定の国民のひとりとして、ある特定の国家を形成するという仕方で実存している。時代性や民族性、国家性や国民性は我々の実存そのもを限定してくる実存論的な制約として考えられるであろう。そして我々はそのような実存論的な制約を媒介として世界史に向かっているのである。そして我々は自国の歴史、つまり国史を通じて世界史に向かい合うのである。
では、このような国史学と世界史学とはどのように連関しているのだろうか。高山は、「国史は常に世界史の一環として成立している。世界史を離れた国史はない。この意味で国史学は世界史学を要求する。この世界史学が単なる実証史学を以て成立しないことはもはや明らかであろう。世界史学は世界史の哲学を要求する。実証史学と世界史の哲学との綜合せられる境に世界史学が完成するのである。一時代の国史的事実もその根抵に於て世界史的事実である。一塵の動くも世界史的事件である。」と述べている。先に触れたわうに、歴史を記述するということは、歴史の創造的行為である。しかしそのような創造的行為もまた、世界史的事件の一つなのである。我々が歴史と立ち向かい、それと関るということには、常にこのような世界史的性格をもつものであるという自覚が必要である。と同時に、現代を生きる我々がどれだけ深く世界史の立場に立って、現代という時代がもつ歴史的境位を思索してきたのかということが問われているように思われてくる。
先に述べたように、この『世界史の哲学』が復刊までに約六十年という歳月を必要としたのは、先の戦争に関する歴史的解釈に起因するとしたが、先の戦争から約六十年という歳月が経とうとしている今日、我々は真に世界史的立場に立ち、先の戦争を含めた日本の近代化をどのように歴史的に認識し、またそこからどのような歴史的課題を引き継ぎ、そして新たな時代を切り開いていこうとする理想的情熱というものを持ち合わせているのであろうか。現代の我々が直面している歴史に関する問題は、単に教科書における歴史的記述の問題だけでも、単なる歴史教育の問題だけでもなく、我々が真に世界史的立場に立ち、歴史的課題を担って将来する次の時代を切り開いていく歴史的実存としての使命を自覚しているのかというところの問題であるように思われる。
歴史上のあらゆる著作がそうであるように、高山の『世界史の哲学』もある特定の時代背景に制約された形で著せれていることは否定できない。しかしながらその時代的制約をもってしても、高山が『世界史の哲学』において問うた歴史的実存としての使命を自覚という問題は、現代における我々が見失いつつある歴史的意識の本質とは何かということを照らし出してくれているようにさえ思われるのである。それは、高山の『世界史の哲学』がもつ時代を超えて、なおも歴史の建設的行為に参与していく思索的生命力を有している証明ではないだろうかと思われるのである。(2001年7月14日筆)
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上記は、2001年7月にこぶし書房から復刊された高山岩男先生の主著である『世界史の哲学』の書評を書いて未発表のままにしていたわたしの原稿である。この『世界史の哲学』についてはこの書評のもとになった『高山岩男著『世界史の哲学』における歴史哲学的思索の意義』という未発表のエッセイもあるのだが、そちらも折を見てまたブログで発表したいと考えている。
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