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2018年02月23日14:42

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氷見潔著『カント哲学とキリスト教』を読む

昨日、大阪市立中央図書館から、氷見潔著『カント哲学とキリスト教』(近代文藝社)が届く。

この『カント哲学とキリスト教』をネットで探していると、大阪市立中央図書館が所蔵しているというデータが出てきたので、早速図書館に電話をかけて、障害者対応で貸し出ししてもらえないかと頼んだところ、すぐに書籍と図書館カードなどが送られてきた。

早速、『カント哲学とキリスト教』を読み始めて、昨夜には読み終えてしまう。

やはり氷見潔さんだけのことはあって、単なるカントの『宗教論』の解説書というレベルではなく、しっかりとカントの『宗教論』に対して独自の見方から論じておられた。あとがきによれば、氷見潔さんがカントの『宗教論』に関して今まで奈良県立商科大学の『研究季報』に発表されてきた論文を一冊にまとめられたものとのこと、決してカントの『宗教論』に関する概説書ではないということがよくわかるのである。

わたしがこの氷見潔さんの『カント哲学とキリスト教』において注目したのは、カントの『宗教論』の第四部「善の原理の支配下における奉仕と偽奉仕とについて、すなわち宗教と僧職制について」である。この第四部は、これまでの研究者たちからほとんど無視されてきた部分であった。カントの『宗教論』における�猊佞餌�し�瓩箸気┐澆覆気譴討�た。しかし氷見潔さんはその第四部に�爛�ントの宗教哲学的思想はもう一度重要な新展開を示している�瓩塙發�評価しているのである。

その第四部では、カントは�狃ゞ気梁塚遏�教会の頽廃それに対する予防方法などを主として論じている�瓩里任△襦�カントにとって宗教は�爐△蕕罎詁仔租�義務を神の命令として認識すること�瓩任△襦�そのような宗教の見方からキリスト教も論じていく。カントにとってキリスト教はどこまでも理性宗教であり、道徳法則の実現を目指すものなのである。ゆえに、イエスの説教もその根本にあるのは�狷仔銑瓩覆里任△襦�カントはイエスの説教を�狷仔租��瓩鵬鮗瓩靴茲Δ箸靴討い襪里任△襦�ではそのようなキリスト教会でなぜ頽廃が生じてきたのであろうか。

氷見潔さんは、カントが考えるキリスト教会が大敗してしまった原因を次のように述べている。

「〈旧約〉の内容を〈予言〉という概念によってまとめ、それのいっさいの成就をイエスの出現の内に見出しかつその意味においてイエスこそ期待されたメシアにほかならない、という主張する態度こそ、キリスト教信仰を特殊的な民族史の土台の上におこうとするものであろう。キリスト教会は、みずからの普遍性を標榜する公式的見解とは裏腹に、自分自身をその基礎に関して、現に局地化してしまっているのである。要するに、カントは、キリスト教の内なるユダヤ教的性格といった問題点が、パウロの異邦人伝道によって解決された、などとはっして考えていない。かえって、キリスト教会が〈新約〉に対する〈旧約〉という関連付けにおいてユダヤ民族の聖典を受容し、しいて歴史的一貫性をつい供しようとした、ということによって、問題は固定されて後世に多大な影響を及ぼし続けてきた、と彼は考えるのである。」

カントは、キリスト教を「自然的宗教」だと考えている。「自然的宗教」とは、�爐△觜坩戮�神の命令であるということを認めるためには、それをまず道徳的義務として認識しなければならない�瓩箸い�宗教であり、�爐△觜坩戮鯑仔租�義務として承認するためには、それをまず神の命令として知らなければなければならない�瓩箸いΑ峽室�的宗教」とは分類される。カントが「自然的宗教」というその�犲�然的�瓩箸いΔ海箸砲弔い討蓮▲�ントは説明していないが、氷見潔さんによれば、�猴�性が人間本姓に生まれつき備わっている能力である�瓩箸いΔ箸海蹐�らきているのだろうといわれる。そういう意味からもキリスト教は人類普遍の宗教でなければならないのだ。ところがあまりにもユダヤ教との歴史的一貫性にこだわった結果、ユダヤ民族の歴史的風習から逃れることはできず、教会での礼拝などの宗教的行事も�犒然鴫宗Ω�威付け化�瓩靴討靴泙辰燭里任△襦�

では、氷見潔さんが第四部に�爛�ントの宗教哲学的思想はもう一度重要な新展開を示している�瓩箸いΔ海箸楼貘硫燭覆里世蹐Δ�。そしてその新展開は思想史的にみてどのような意味をもつのであろうか。わたしは次のような氷見潔さんの記述から見て取れるように思える。

「以上、私たちは、カントが教会的キリスト教の権威主義的・学識的宗教的な現状鋭く批判している、ということ、およびそのことに関連において彼がユダヤ教的・旧約的伝統に対してかなり反発を示している、ということを見てきた。彼はまさに、ユダヤ教的・旧約的伝統をこそ、キリスト教の道徳的純化の妨げとなる否定的構成分とみなしているのである。これを、彼の思想における、〈反ユダヤ教的〉といって語弊があるならば、〈反旧約的〉な傾向とよぶことができよう。この思想傾向の是非を論ずることは、いま私たちにはとてもできない。ただ、いずれにせよ、それは、近代ドイツ思想史の意断面を示すものとして、注目に値するに違いない。とくにまた、この数年後にカントの論述から多大な影響を受けたと思われる青年期のヘーゲルが、この同じ傾向をいっそう顕著に示してくる、という事実を考え合わせるとき、私たちは、事柄の重大性をいっそうつよく認識せざるを得ないのであろう。」

長年、研究者たちから、カントの『宗教論』における�猊佞餌�し�瓩箸澆覆気譴討�た第四部にこのようなカントの宗教哲学的思想や思想史的意味を見出しているところに、この『カント哲学とキリスト教』の真価があるように思われるのである。
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