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2018年02月11日12:37

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武藤一雄先生の脚下照顧」―�狆貊蠅箸靴討寮士醢性�

わたしは今、武藤一雄先生の『神学的・宗教哲学的論集�供戞柄亙玄辧砲房�められている「脚下照顧」という論文を読んでいる。

この「脚下照顧」という論文は、キリスト教の神の三位一体論において、聖霊を、父なる神、子なる神(キリスト)という他の異なるペルソナを持つ神が�爐修海鳳�いてある場所�瓩箸靴董↓狆貊蠅箸靴討寮士醢性瓩鯱世犬茲Δ箸気譴誅席犬任△襦�

武藤先生は、「西田哲学によって〈無の場所〉ということを教えられて以来、わたしは場所論的(トポロジカル)な含蓄を有する言葉にいささか敏感になったように思う。」と語られているが、武藤先生が宗教哲学者として西田哲学の〈無の場所〉という言葉に敏感になられたことが分かるように気がする。

「〈脚下照顧〉ということが、自己がそこに〈於てある〉在所を顧みよということを意味しているとすれば、キリスト者たる者は、みずからが、〈キリストにあり〉、〈霊にある〉ことを照顧する者でなければならない。〈キリストにある〉ということと〈霊にある〉ということは、ほとんど同意語であると述べたが、それはほかならぬキリスト者にとって、―例えば、使徒パウロのごときキリスト者にとって―そのような事柄である。」

わたしは、西田幾多郎の最後の完成論文『場所的論理と宗教的世界観』のなかに出てくる�狷盧濺�超越のキリスト�瓩箸いΩ斥佞暴于颪辰動瞥茵△修慮斥佞鮗蠅�がりにして西田哲学、ドストエフスキー、そして親鸞の三者を重ね合わせながら論じることはできないかということをずっと考えてきた。しかしそのことはいまだ結実していないのだが、しかし《内在的超越》という言葉に敏感になりだしたころ、武藤先生の「宗教における〈内在的超越〉ということについて」という論文に出会った。

その論文が収められた『新しい宗教哲学の可能性』(創文社)を必死に関西一円の古本屋を探し回ったことを覚えている。その「宗教における〈内在的超越〉ということについて」という論文において、武藤先生は、いわゆるカール・バルトに見られる神学主義とキリスト教徒他の宗教と同列に扱おうとする宗教主義の対立を、神学主義の立場に立ちながら、どこまでも〈内在的超越〉の方向で克服していこうとされたのであるが、今回の「脚下照顧」では、武藤先生の�牋譴弔離廛蹈謄好織鵐箸箸靴騰瓩箸いΕ�リスト教的な信仰の深さを感じざるを得なかったのである。

西田幾多郎、久松真一、西谷啓治などという京都学派の哲学者たちの哲学的思索の根底に�狒掬�体験�瓩�あることは指摘されている。それと同じく武藤一雄先生の神学的・宗教哲学にもやはり�爛�リスト教的信仰�瓩�その根底にあるように思えたのである。

わたしは、武藤神学的・宗教哲学の独創性が〈内在的超越〉という言葉にあるように思えているのだが、それは、武藤先生ご自身が自らのキリスト教的信仰と学問としての宗教哲学との間で苦闘された痕跡なのだと思っている。

「脚下照顧」における�狆貊蠅箸靴討寮士醢性瓩蓮△匹Δ發海痢峙啣湿噺棔廚箸いο席犬世韻任牢扱襪靴討い覆い茲Δ任△襪�、武藤先生の論文を拝読していた最低でも聖書の知識ぐらいは持っておかねばと痛感しているのである。
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