武内義範師は『教行信証の論理―序講』(1948/49年『武内義範著作集第一巻 教行信証の哲学』所収)において次のように語られている。
「なんとなれば、この問題は、しばらく『教行信証』を離れ、また少し視野を大きくして見れは、実に、信仰と論理、宗教と哲学との関係についての、一つの根本的原理的な洞察や立場を要求するものであって、単に宗教哲学のみならず、一般に言って哲学の問題の核心に触れるものであるから。そうしてわれわれが『教行信証』を媒介にして思索することによって、この問題に対する解決の鍵を見出すことができるというのが、実に「教行信証の論理」の重要な結論の一つなのである。われわれの希望が空しくならないとすれば、「教行信証の論理」は絶えずこの問題を取り上げ、次第に深くこの問題を深層へと掘り下げてゆきつつ、ついに一つの立場、―単に特殊な信仰とか論理とか宗教とか宗教哲学とかというものではなく、古代・中世・近代諸哲学の思索や、論理とは段階を異にする、現代の新しい哲学の立場、哲学的自覚の方法(すなわち論理)に到達することができるであろう。」
武内義範師は、処女作『教行信証の哲学』において、親鸞の主張である『教行信証』全巻を貫く「信楽の論理」を見出した。しかしその「信楽の論理」とは単に『教行信証』だけではなく、更に広く西洋哲学の�犖殿紂γ羸ぁΧ畭綵�哲学の思索や、論理とは段階を異にする、現代の新しい哲学の立場、哲学的自覚の方法(すなわち論理)に到達することができる�疣斥�であると、武内義範師は論じているのである。
このような立場にこそ、武内義範師の宗教哲学の特色があると論じるのが、小野真氏の『武内義範の宗教哲学』(『親鸞と人間』(光華会編)永田文昌堂発行2002年)と『武内義範「教行信証の哲学」とハイデッガー』である。
小野真氏は、現在、相愛大学の準教授で、京都大学大学院博士後期課程修了後、『ハイデッガー研究−死と言葉の思索』(京都大学学術出版会 2002)にて京都大学で文学博士号を取得されている。専門はハイデッガー哲学である。
武内義範師が『教行信証の哲学』においては、ヘーゲルの『論理学』と『精神現象学』とに倣って、教行信証における�犖仮�土真実文類�瓩鉢犖仮�土方便化身土文類�瓩箸隆愀犬鮃融,気譴燭箸気譴討い襦�しかしながら『教行信証の哲学における次のような論述からハイデッガーの影響が読み取れると、小野真は指摘する。
「親鸞においても、浄土教における解脱は正像末の歴史なよって限定せられた被投的企画であり、正像末の史観は、また、この実践的な企画によって評価され、整理された仏教史の概観である。」
「正像末の史観が現在から未来への被投的企画として救済を意志している以上、この歴史的に結果してきた言歳の世界的罪障を、現存在である宗教的要求が自己に荷負することは当然であるが、我々はしばらく、その過程を分析してみるとしよう。」
ここで用いられている「被投的企画」はハイデッガーの『有と時』におけるder geworfere Entwurfの翻訳であり、「現存在」はDasrinが武内義範師の念頭にあったと小野真師は指摘している。わたしも『教行信証の哲学』を読んだ時、武内義範氏の念頭にハイデッガーのことがあったのではないかと思ったりもしていたが、ハイデッガーの専門家である小野真氏の指摘を見たとき、�爐笋呂雖瓩箸い�思いがした。
武内義範師の宗教哲学的思索は、ある意味でハイデッガーとの�狢佻鱈瓩砲茲辰禿験�されていたっと、小野真氏は指摘する。しかしながら武内義範師のハイデッガー批判の真髄は、ハイデッガーが超越者(絶対者)との遭遇を論じていなかったことにあると小野真氏は指摘する。ハイデッガーが�犹爐悗良坩足瓩筬犹溶孫隋�das Gevierte)�瓩剖Υ兇靴弔弔皸豐咾靴独稟修垢襪里蓮▲魯ぅ妊奪�ーの思索に超越者(絶対者)との遭遇に欠如している点にあると繰り返し論じているのである。言い換えると、武内義範氏にとって�狡怯杣圈弊簑仄圈砲箸料�遇�瓩蓮⊃祐屬陵�限性の自覚、その有限性の自覚とは、単に死の自覚という�犹�間的�瓩別簑蠅任呂覆�、むしろ罪障の深さの自覚にあるのである。その罪状の深さの自覚が三願転入における第十八願と第二十願の関係性、武内義範師が第二十願は第十八願に対してのみ存在するという独自の三願転入論にもつながっているのである。
小野真氏は武内義範師が西田・田辺両巨頭の教えにつながる�犁�都学派の代表的な哲学者の一人�瓩箸靴覆�らも、京都学派の哲学における武内義範師の宗教哲学の特色を次のように論じている。
「さて、西田、田辺、武内の浄土真宗に対するアプローチはそれぞれ共通点や異なった点を持っているが、武内の立場は、東西両思想を統合した固有の確立した立場を前提にして個別具体的宗教を言及するという志向を持つ西田や田辺とは大きな違いがあると思われる。武内は、むしろ浄土真宗という個別具体的な宗教的立場の哲学的解明を推し進めることによって東西両思想を統合する立場を生み出していこうとする。もとより、武内の研究は、親鸞思想の解明だけではなく、原始仏教、現代キリスト教神学、宗教哲学一般にまで多岐にわたるが、それらの探究の底流にも、常に宗教哲学的諸問題を解く根本的な鍵が親鸞思想の中にあることが意識され続けている。雅な『教行信証』の哲学的研究が武内の「生涯の課題」なのである」(『武内義範の宗教哲学』P83)
武内義範師の宗教哲学については、長谷正當氏の「トランス・デサンダンスとしての超越―武内義範の宗教哲学」(『心に映る無限―空のイメージュ化』法蔵館)がある。しかし武内義範師の『教行信証の哲学』を主題的に取り上げた論文は少ない。それだけにこの小野真氏の『武内義範「教行信証の哲学」とハイデッガー』や『武内義範の宗教哲学』の二つの論文は武内義範師の宗教哲学を研究する上で貴重な論文であると考えるのである。
なお、今回、小野真氏の『武内義範「教行信証の哲学」とハイデッガー』と『武内義範の宗教哲学』は、現在、大谷大学大学院文学研究科哲学専攻の教授である村山保史さんに無理を言ってコピーをお送りいただいた。村山保史さんはわたしと同じ訓覇曄雄先生のゼミナールの優秀な後輩であり、カント研究を専門としておられる。訓覇曄雄先生の後任としてその任を任された大谷大学文学部哲学科出身の何時剤である。そして村山保史さんは、単にカント哲学だけではなく、曽我量深、金子大栄、鈴木大拙、西谷啓治という大谷大学が近代日本思想に与えた影響の大きさを�狹�学的�瓩蔽亀瓩靴茲Δ箸気譴討い襦�わたしはその方面での村山保史さんの研究成果に大きく期待しているのである。ここに改めて村山保史さんに御礼を申し上げたい。
ログインしてコメントを確認・投稿する