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2016年03月27日13:09

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第十七願と�牘�宙論的コーラス�瓠戎二造糧嫻�の�犲�然法爾�瓩寮こΔ�

「設我得佛、十方世界 無量諸佛、不悉咨嗟 稱我名者、不取正覺」

上記は、『大無量寿経』にある弥陀の四十八願の中の第十七願である。

曽我量深師は、次のように語っておられる。

「阿弥陀仏の本眼力とは何であるか。本眼力そのものは、第十七願、南無阿弥陀仏にちがいない。その南無阿弥陀仏によって我々はいかにして助けられるか。助ける南無阿弥陀仏に、助けられるにはどうしたらよいのか。その問題を明らかにするのが第十八願である。この第十八願に先立って、助ける本願はいかなるものであるのかを明らかにするのが第十七願である。」(『本願と浄土―第十七願のこころ―』曽我量深講義集第十三巻『正信の道』所収)

わたしが第十七願に注目するようになったのは、橋本崇著『シェリングと親鸞―武内義範『教行信証の哲学を手かがり―』(岩波書店刊行『思想 二〇一六年二月号』掲載)を読んでからのことである。橋本崇氏は次のように論じている

「ここで注目されるのが、三願に先立つ第十七願である。第十七願は�爐燭箸い錣譟∧�を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ�瓩如↓狃�仏咨嗟の願�瓩箸気譴襦�親鸞は『教行信証』の行巻においてこの願を取り上げ、晩年の武内も繰り返し懇願に言及している。すなわち、この願には、阿弥陀仏をほめたたえ称名する諸仏が記されているだけで、われわれ衆生の在り方には何も記されていない。そこで、この願については様々な解釈が行われてきたわけであるが、何も記されていないことが、かえって衆生と阿弥陀仏との断絶を示していると考えることはできよう。武内は�狃�仏の称名とか諸仏の咨嗟というのは、この世の中に阿弥陀仏の名号を広めるための手段である�瓩塙佑─⊇�仏は衆生にも称名を広めさせるために咨嗟しているのであるから、�狃�仏の称名咨嗟というものの中に一切衆生の称名念仏が含まれ、それによって催起せられる�瓩箸垢襦�したがって、ここには、あらゆるものが念仏を合唱し、コーラスを奏でているかのような、�牘�宙音�瓩�響き渡っているという。」

橋本崇氏が�燹�晩年の武内も繰り返し懇願に言及している�瓩箸蓮�武内義範師の『教行信証における信の問題』という論文のことである。またこの第十七願に対する武内義範師の�牘�宙論的コーラス�瓩箸いΣ鮗瓩砲弔い討蓮⊂�野真氏の『武内義範の宗教哲学』(『親鸞と人間』(光華会編 2002年6月)掲載)という論文には、晩年のハイデッガーの「四和合」という思想の影響を受けながら、『教行信証の哲学』において武内義範師が見出した『教行信証』全体を貫く�狄�楽の論理�瓩療験�における一つの到達点と論じている。この小野真氏の『 「武内義範『教行信証の哲学』とハイデッガー」という論文と『武内義範の宗教哲学』という論文については、後日日を改めてかきたいと思うのであるが、わたしには、この第十七願の世界が親鸞の「自然法爾」の世界を切り開いているように思えてならないのである。

曽我量深師は次のようにも語られている。

「生きているうちは、心の中は妄念妄想の他にはないが、煩悩妄念の中に、如来の本眼力があって、南無阿弥陀仏として、はたらいてくる。すなわち我々は、南無阿弥陀仏によって自力執念の生死を、超越せしめられるのである。」

わたしはこの曽我量深師の力強い言葉に、感動を覚えるとともに、武内義範師が第十七願に見た親鸞の信仰的世界の一端を垣間見たように思えたのである。



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