デザイナーは嫌いだ。
ちょっと暴言だが。
仕事がWEB制作なので、必ずデザインをする必要があり、自分でもするが外注も多い。
デザイナーなしには成立しないので、彼らには敬意を払うが、
自分に関係のないところで物申せるとすれば、デザイナーという人種や文化は苦手だ。
特に、佐野氏のような動かない平面のデザイナーね。
私の大学時代の教授(のなかで一番影響を受けたの)は川崎和男で、
私は彼のようなデザイナーこそがデザイナーだと思っている。
もちろん、その作品をすべて吟味したわけではなく、
中には模倣疑惑もあるかもしれないが、彼の制作態度は本物で相応に作品も独創的だ。
私の好みのデザインではないけれど、本物なのだ。
彼はデザイナーは喧嘩師であれと教え、独創的ではないものを嫌った。
喧嘩師であれというのは、例えば相手のために複数案を用意するなという教えだ。
複数案あるというのは、相手に対する調査が足りず、自分の中で完成していないからだ。
この世の中のベストは一つでなくても、自分の中ではベストは一つのはずだと。
しかし、そんな彼の教えを受ける学生たちは、
デザインを共有し、過去の制作物をあさり、当面の課題をこなすことを良しとして育つ。
さらにデザイン会社に入って最初に驚くのは、
「考えなくていいから探してこい」というスタンスだ。
オーダーがあると、デザイナーはその分野の過去の作品を検索してイメージをつかむ。
特に新人であればあるほど、新規に何か作るということなんか求められない。
過去にある、なにかを組み合わせて、「それなり」のものを「いくつか」提示すれば、
彼らも顧客も顧客の顧客もみんな満足なのだ。
そうでなくても、例えば水玉や千鳥格子などといった基本的なデザインは
もはや模倣としては扱われない。基礎技術の範疇だ。
作るものはおおよそ似たものが世界中から見つかるのかもしれない。
しかし、それでいいのか。
それでいいのかと言いつつ、そのようなものを使わないとすれば、デザインは不可能な領域に達している。
達しているが、生理的には受け付けない。
結局私はデザインという業界を離れることにした。
まあ、結局片足は突っ込んだままなのだけど。
だから、現存するデザイナーというのは基本的に傲慢でその反面模倣屋だろう。
一部のトップデザイナーの、「現在だけ」が独創的であって、
その過程まで真っ白に独創的であったという例はほとんどないのではないか。
そういう部分を共有しているからこそ、佐野氏を擁護するデザイナーが汚く見える。
自分は佐野氏と同じではあるけれど、それを擁護できない修羅の道であるべきだ。
罪の意識を持ちつつ汚いことをしてでも生きていくのは否定しない。
けれども、開き直って擁護してしまうとそれはどうなのか。
■伊勢志摩サミットのロゴ審査ピリピリ「間違いないよう」
(朝日新聞デジタル - 09月02日 18:35)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3596611
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