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2015年08月07日12:41

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�猯鮖砲鮟颪�残していく�瓩海箸�まさしく�猝ね茲鮴擇螻�いていく�瓠宗弊鏝紕沓闇�)「あの戦争」とは 日本の近現代史を研究する歴史家・加藤陽子さんのインタビュー記事を読んで

■安倍談話、有識者懇が報告書 侵略明記、おわび言及せず
(朝日新聞デジタル - 08月06日 21:30)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3554335

(戦後70年)「あの戦争」とは 日本の近現代史を研究する歴史家・加藤陽子さん
 「あの戦争」とは何だったのか。戦後の70年は日本人にとって、そう自らに問い続ける時代でもあった。そして、70年たった今も、戦争の原因や責任をめぐり、様々な論議が交わされている。私たちはこれから先も、あの戦争の意味を考え続けていくことになるのだろうか。歴史家として戦争を見つめてきた加藤陽子さんに聞いた。
 ――あの戦争とは何だったのかを考えるとき、加藤さんが注目するポイントはどこですか。
 「戦後50年にあたって出された村山談話(1995年)を読み返すとき、私が最も興味深く感じるのは主語の問題です。談話は『わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ……』と述べています。『国が』国民を存亡の危機に陥れたと語らなければならない戦争とは一体、何でしょう」
 「問題の核心は“残虐な死”が多発したことだと思います。国家の中心部を守るために(敵前方である)周縁部で戦う――そんな軍の防衛思想を国民に強いた戦争であったことが背景にありました」
 ――帝国日本の周縁部で、何が起きたのでしょうか。
 「戦場にされた周縁部には、満州(中国東北部)やビルマ(ミャンマー)、千島列島、フィリピン、太平洋の中部や西部の島々など、実に様々な地域が含まれます。それらの地では戦争終盤、指導部によって放棄された戦線で兵士の大半が餓死を強いられたり、現地に住んでいた日本国民が自国軍に置き去りにされて死傷したりする事態が相次ぎました」
 「戦没者310万人のうち実に240万人が『海外』で死亡した。それが先の大戦の実像でした。日本は、個々の兵士の死に場所や死に方を遺族に伝えることさえできなかった国なのです」
 ――中心部とは何でしょう。
 「日本は『神の国』であり、帝国の中心に『本土』がありました。戦争終盤には『皇土(こうど)』とも呼ばれます。軍部は『代々の天皇が国を治めてきた』という歴史上の理念の擁護者を自認しており、本土そのものの防備を完璧にするより外縁部で守ろうとしました」
 ――沖縄はその皇土の中に含まれていたでしょうか。
 「いなかったでしょう。沖縄もまた周縁部だったのです」
    ■     ■
 ――当時の日本軍内部には、米国には国力でかなわないという冷静な計算もあったと聞きます。なぜ、勝算のない対米戦争を回避できなかったのでしょう。
 「石油問題など様々な要素がありますが、最終的には日本は、中国問題が要因となって対米開戦に踏み切ったのだと思います。米国が重視したのは、中国市場を含めた東アジアの自由貿易体制を日本が承認するかどうか、でした。日本はイエスと答えられなかった」
 「日本は満州事変(31年)で中国内部に満州国を樹立しました。米国から見ればそれは、日本が中国での権益を独占しようとする行動に見えた。最終的に米政府は41年、日本に中国からの撤兵などを求めるに至ります。日本が対米開戦を回避するためには、妥協が必要な状況でした。しかし日本にとって満州は『譲れない条件』になってしまっていたのです」
 「背景には、満州は日清戦争(1894〜95年)と日露戦争(1904〜05年)で血を流して獲得したものだという考えがありました。英霊の死を無駄にするなという主張が力をふるったのです。加えて、中国に対する過小評価もありました。西欧化した日本が中国のためにロシアから満州を奪還した、とする自己中心的な見方です。満州は日本のものであるとの歴史観が『この国のかたち』になったのでしょう。独占をあきらめて自由な貿易に道を開く妥協への道は閉ざされました」
 ――敗戦の約1年前、44年の7月には、自ら「絶対国防圏」と定めたサイパン島が米軍の手に落ちました。なぜ、敗戦が確定的になったあとも早期に戦争を終えられなかったのでしょう。
 「指導層が『どこかで敵に一撃を加えることによって講和の条件を少しでも有利にしよう』と考えたからです。一撃講和論です」
 「今から見れば、当時の日本軍には『有効な一撃』を放てる態勢はありませんでした。唯一の『勝てる方式』と自認していた『精鋭による短期決戦での勝利』の可能性がすでに消え、戦争は、勝てないと分かっていた『長期の持久戦』へ移行していたからです」
 ――なぜ、合理的な見極めが出来なかったのでしょうか。
 「合理性を貫徹できる軍隊を持つ国があるとすれば、それは戦史を正確に編纂(へんさん)できる国、戦争を美談にしない国です。日本は残念ながら、日露戦争がぎりぎりの辛勝だった事実を隠した国でした」
 ――最終局面で、日本の指導部は何を守ろうとしたのでしょう。
 「徹底抗戦を呼号した軍部にとって、守るべき『本土』とは『国体』を意味していました。万世一系の天皇が君臨し統治権を総攬(そうらん)すること、つまり天皇制です」
 ――先の戦争で日本は、侵略をしたのでしょうか。
 「満州事変は、日本軍の謀略に基づく侵略でしょう。37年からの日中戦争は発端こそ偶発的な要因でしたが、戦闘が本格化して以降は相手国の土地への侵略だと思います。対米英戦での真珠湾への奇襲も侵略にあたるでしょう」
 「日本人は侵略を認めていないという批判があります。しかし2005年の世論調査(読売新聞)によれば、日本と中国の戦争を日本の侵略だったとする人は68%でした。無回答やその他が22%で、侵略ではなかったという積極的な否定論は10%に過ぎません」
    ■     ■
 ――戦争責任をめぐる議論もまだ続いています。
 「朝日新聞が今年春に行った世論調査では、日本がなぜ戦争をしたのか『自ら追及し解明する努力を十分にしてきたと思うか』という問いに、『まだ不十分だ』と答えた人が65%もいました。『まだ分からない、もっと追及するべきだ』が国民の意思でしょう」
 ――分かりにくさが付きまとう理由は何でしょうか。
 「戦争があまりに巨大で悲惨だったからだと思います。日本が41年12月に米ハワイなどで対米英戦を始めたとき、国民の間には『中国大陸で戦争をしていると思っていたのに、なぜ?』という疑問があったでしょう。気づくと、日本軍はビルマでも太平洋西部のトラック島でも千島列島でも戦っていた。『こんなに広い領域に軍を展開させ、こんなに多くの国を敵とする戦争を、私たちはいつ始めたのか』。当惑するしかないような不可視感があったと思います」
 ――日本の戦争を否定的にとらえる歴史観は米国によって占領期間中に押しつけられたものだ。そんな「戦後」批判があります。
 「占領期の国民がどう考えていたかについては、最近、印象的な史料に出会いました。降伏直後の45年秋に幣原喜重郎内閣が、大東亜戦争調査会というものを設置しています。戦争の原因と実相を日本人の手で調査し、記録に残すことを目的にした機関でした」
 「幣原首相はその記録を『後世国民を反省せしめ納得せしむる』ものにしたい、と発言していました。戦勝国にせよ敗戦国にせよ戦争は引き合うものではないのが現実であり、その参考になる記録にする、とも。また、戦前に鉄鋼増産の立案に携わった水津(すいつ)利輔は46年5月に調査会で、『来(きた)るべき平和的、文化的世界に対して日本は一つの贈り物がある』と語っていました。贈り物とは、自ら『失敗原因の報告』をすることである。水津はそう発言しています」
 「連合国側の意向で、後に調査会の試みは中止させられました。ただ私は彼らの発言を読み、身についた言葉だと感じました。日本国民が戦後に到達していた一地点を示すものだと思います」
 ――戦後の日本は、戦前とは違う憲法を持つ国になりました。新しい憲法は「日本人と戦争の関係」を変えたでしょうか。
 「変えたと思います。たとえば、戦争中に『残虐な死』が大量に生み出されたのは、『すべての個人の生』を国家に捧げるよう国民に要請する時代だったからです。他方、戦後の憲法は『基本的人権の尊重』を明確に定めている。国民はもはや国家に利用されるだけの存在ではなく、国家に対してそれぞれの『個』の存在が確保される形に変わっています。国民である以上、戦争の苦悩は受忍すべきだ――そんな考えは現憲法の認めるものではありません」
    *
 かとうようこ 60年生まれ。東大教授。「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」「満州事変から日中戦争へ」「徴兵制と近代日本」など戦争に関する著書で知られる。
 ■取材を終えて
 満州事変は侵略だったのか――。多くの歴史家にとっては自明のこんな問いを正面から立てなければならない政治状況に、今の日本はある。安倍晋三首相が近く発表する戦後70年談話のためだ。
 「(日本の)植民地支配と侵略」についての「反省」と「お詫(わ)び」。新たな談話からこれらの文言が削除されれば、国際社会への負のメッセージになりかねない。
 加藤陽子さんの言葉からは、歴史研究者としての責務を果たそうとする意志が伝わってきた。(編集委員・塩倉裕)
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上記は、8月5日付の朝日新聞朝刊に掲載された、日本の近現代史を研究する歴史家・加藤陽子氏による「(戦後70年)〈あの戦争〉とは」というインタビュー記事の全文である。

この加藤陽子氏のインタビュー記事の中で、わたしが最も注目した点は、加藤陽子氏が歴史学者らしく、�猯鮖砲鮟颪�残していく意義�瓩鮗,里茲Δ妨譴辰討�られる個所である。

「合理性を貫徹できる軍隊を持つ国があるとすれば、それは戦史を正確に編纂(へんさん)できる国、戦争を美談にしない国です。日本は残念ながら、日露戦争がぎりぎりの辛勝だった事実を隠した国でした」

�犢舁�性�瓩鯢�要とするのは、軍隊だけではないだろう。ある意味で�狎�治�瓩両紊任盥舁�性は求められるべきものである。加藤陽子氏は�犢舁�性を貫徹できる軍隊を持つ国があるとすれば、それは戦史を正確に編纂(へんさん)できる国、戦争を美談にしない国です�瓩判劼戞↓狷�本は残念ながら、日露戦争がぎりぎりの辛勝だった事実を隠した国でした�瓩判劼戮蕕譴討い襦6畭綟�本史において、日露戦争において日本が勝利国となったのか否かの判断によって、日露戦争以降の日本の歴史は変わっていったのかもしれない。

わたしはこの加藤陽子氏の�狷�露戦争�甦僂�近代日本の分岐点となったという説に、司馬遼太郎の「日露戦争後の日本は、まるで日本とは全く異質な別の国家であるように思われる国家になってしまった」という言葉を思い出した。近代日本史において�狷�露戦争をどのように評価するのか�瓩箸いΔ海箸�大きな分岐点となったのである。

「日本は日露戦争においてロシアに勝利した」という思いが日本を満州事変へと駆り立てた。日本軍にとってもロシア(革命後のソビエト)は�牴樵枦┨餃瓩任△蠡海韻燭里澄�しかしそのことをよく考えると不思議なことである。日本は日露戦争でロシアに勝利した。にもかかわらず、勝利した国を�牴樵枦┨餃瓩箸澆覆径海韻襪箸いΔ里癲△�かしなことである。

このインタビューの冒頭であの戦争を考えるとき、加藤陽子氏が注目すべきポイントとは何かという問いかけに、加藤陽子氏は次のように答えられている。

「戦後50年にあたって出された村山談話(1995年)を読み返すとき、私が最も興味深く感じるのは主語の問題です。談話は『わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ……』と述べています。『国が』国民を存亡の危機に陥れたと語らなければならない戦争とは一体、何でしょう」
 「問題の核心は“残虐な死”が多発したことだと思います。国家の中心部を守るために(敵前方である)周縁部で戦う――そんな軍の防衛思想を国民に強いた戦争であったことが背景にありました」

では、加藤陽子氏が考える�犢餡箸涼羶管��瓩箸浪燭覆里�、加藤陽子氏は次のように答えられている。

「日本は『神の国』であり、帝国の中心に『本土』がありました。戦争終盤には『皇土(こうど)』とも呼ばれます。軍部は『代々の天皇が国を治めてきた』という歴史上の理念の擁護者を自認しており、本土そのものの防備を完璧にするより外縁部で守ろうとしました」
――沖縄はその皇土の中に含まれていたでしょうか。
「いなかったでしょう。沖縄もまた周縁部だったのです」

つまり戦前の日本において�犢餡箸涼羶管��瓩箸蓮�日本国民でもなければ日本の領土でもない。それはひたすら�犢饌劉瓩噺世錣譴伸狹傾沈��瓩任△辰燭函�加藤陽子氏が明言されているのである。

「徹底抗戦を呼号した軍部にとって、守るべき『本土』とは『国体』を意味していました。万世一系の天皇が君臨し統治権を総攬(そうらん)すること、つまり天皇制です」

戦前の日本では、�犢餡箸涼羶管��瓩任△訶傾沈�を守るために、国家が国民に対して“残虐な死”を強いた。つまり�燹惺颪�』国民を存亡の危機に陥れた�瓩里任△襦�

そのような国家体制こそが、�狎鐐阿瞭�本�瓩箸い�国家体制であったのである。

日本の戦争を�狄�略戦争�瓩任△辰燭箸いΝ猗歡蠹��瓩蔑鮖亡僂蓮∪衫旅颪砲茲辰堂,敬佞韻蕕譴仁鮖亡僂世箸いΩ�方がある。それについてどのように考えるのかと問われて、加藤陽子氏は次のように答えられている。

「占領期の国民がどう考えていたかについては、最近、印象的な史料に出会いました。降伏直後の45年秋に幣原喜重郎内閣が、大東亜戦争調査会というものを設置しています。戦争の原因と実相を日本人の手で調査し、記録に残すことを目的にした機関でした」
 「幣原首相はその記録を『後世国民を反省せしめ納得せしむる』ものにしたい、と発言していました。戦勝国にせよ敗戦国にせよ戦争は引き合うものではないのが現実であり、その参考になる記録にする、とも。また、戦前に鉄鋼増産の立案に携わった水津(すいつ)利輔は46年5月に調査会で、『来(きた)るべき平和的、文化的世界に対して日本は一つの贈り物がある』と語っていました。贈り物とは、自ら『失敗原因の報告』をすることである。水津はそう発言しています」
 「連合国側の意向で、後に調査会の試みは中止させられました。ただ私は彼らの発言を読み、身についた言葉だと感じました。日本国民が戦後に到達していた一地点を示すものだと思います」

水津利輔の�燹慷茵覆�た)るべき平和的、文化的世界に対して日本は一つの贈り物がある』と語っていました。贈り物とは、自ら『失敗原因の報告』をすることである�瓩箸いθ�言に、わたしも�狷�本国民が戦後に到達していた一地点を示すものだ�瓩隼廚┐燭蠅靴拭�そしてその思いが戦後日本を研究するアメリカの歴史家であるジョン・ダワー氏をして�猗新鎧�の精神�瓩海修�「日本の誇るべき力」と言わしめたのかもしれない、そんな思いを強くしたのである。

最後に、戦後の日本は戦前と異なる憲法を持つ国となった。新しい憲法は�狷�本人と戦争の関係�瓩鯤僂┐燭里�という質問に対して、加藤陽子氏は次のように答えられている。

「変えたと思います。たとえば、戦争中に『残虐な死』が大量に生み出されたのは、『すべての個人の生』を国家に捧げるよう国民に要請する時代だったからです。他方、戦後の憲法は『基本的人権の尊重』を明確に定めている。国民はもはや国家に利用されるだけの存在ではなく、国家に対してそれぞれの『個』の存在が確保される形に変わっています。国民である以上、戦争の苦悩は受忍すべきだ――そんな考えは現憲法の認めるものではありません」

つまり戦後の新しい憲法、『日本国憲法』はどこまでの�犖弔梁砂鏑瓩砲茲辰胴餡箸�戦争によって国民に犠牲をしてることを禁じているということなのだ。

しかしこのインタビュー記事の中の、加藤陽子氏の

「合理性を貫徹できる軍隊を持つ国があるとすれば、それは戦史を正確に編纂(へんさん)できる国、戦争を美談にしない国です。日本は残念ながら、日露戦争がぎりぎりの辛勝だった事実を隠した国でした」

という言葉が印象的であった。自分の祖国に都合が悪い事実でも、それが�犹房足瓩任△譴弌△靴辰�りと向き合うことの重要性を考えされられ、�猯鮖砲鮟颪�残していく�瓩海箸�まさしく�猝ね茲鮴擇螻�いていく�瓩箸いΔ海箸鮨爾�、強く考えさせられたのである。

では、今の日本の現状はどうだろうか。自分たちに都合が悪いことには目をつぶり、歴史に向き合おうとはしていない。そんな�猯鮖砲�ら逃げようとしている国民�瓩箸靴�見えて来ないのであるが、どうだろうか。


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