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2015年05月29日15:40

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西谷啓治先生と『西哲叢書』の「ベルグソン」

西田幾多郎・田辺元を中心とした京都学派が最盛期であった頃をしのぶことができるものに、田辺元が監修をした弘文堂刊行の『西哲叢書』が挙げられるであろう。そのなかでも高坂正顕の『カント』、高山岩男の『ヘーゲル』、木村素衛の『フィヒテ』、下村寅太郎の『ライプニッツ』、野田又夫の『デカルト』等は、研究所としての生命力を今なお持ち続けている。『西哲叢書』は当時の京都帝国大学文学部哲学科で西田、田辺のもとで学んだ新鋭の若き秀才研究者たちの手によって、ソクラテスからマックス・シェーラーまでを、一人の研究者が一人の哲学者の生涯と哲学思想についてまとめられた著作群であり、それらは決して入門書といったレベルでなければ、ある特定の領域に絞られた専門書でもない。まさに一人の哲学者を全体的に捉えようとする、他に類を見ない哲学書群であった。

その中で西谷啓治先生は、ベルグソンを担当することになっていた。西谷先生が『西哲叢書』のなかで「ベルグソン」を担当するというというは、若き日の西谷先生の卒業論文が『シェリングの絶対観念論とベルグソンの純粋持続』ということとも無関係ではないように思えてくる。西谷先生は早い時期からベルグソンに関心を持たれていたことが分かる。そこには、シェリングとベルグソンとの�犇δ鵡爿瓩箸靴騰狄脆訶�なもの�瓩肪輒椶気譴討い燭海箸發△辰燭茲Δ忙廚錣譴討覆蕕覆い里任△襦�

かつて一度だけ西谷先生に『西哲叢書』の中の「ベルグソン」を引き受けられた頃のお話を伺ったことがある。それは、西谷先生が留学される頃の話から始まった。西谷先生がドイツに留学され、ハイデッガーに師事したことは有名であるが、西谷先生の留学には少し裏話があったようである。西谷先生に留学を薦められたのは、波多野精一先生であった。西谷先生は波多野先生のもとで京都帝国大学文学部哲学科宗教学の助教授を務められていた。その後、波多野先生は文学部哲学科キリスト教学専攻分野(宗教学第二講座)が創設され、そちらの講座を担当されることになる。しかし西谷先生はあまり留学したいというお気持ちはなかったようだ。というのも、田辺元先生が留学し帰朝後にヨーロッパでも西田幾多郎先生と並ぶ哲学者に会うことはできなかったといわれたこともあり、わざわざヨーロッパまで行くよりも、西田幾多郎先生がいる京都にとどまって勉強する方が自分にも意味があると考えられていたようである。しかし当時の京都帝国大学文学部哲学科では、助教授は海外に留学し、そこで博士論文なりを書き上げて、初めて主任教授になるということが習慣化されていたようである。だから波多野先生は、自分の下で助教授を務める西谷先生の教授昇進のことも考え、強く留学することを薦めたらしい。波多野先生にとって西谷先生を留学させることが自分の使命だと考えていたのかもしれない。そんなこともあって、西谷先生はしぶしぶ留学することにしたと笑いながら話されていたことがあった。

西谷先生がヨーロッパに留学され、まず最初に師事しようと考えたのは、ハイデッガーではなく、アンリ・ベルグソンであった。そして西谷先生はまずフランスのパリに赴かれたのだが、ベルグソンは高齢で病の床についていて、大学での授業も行うことはないだろうということで、一路ドイツに向かわれ、ベルリン大学でニコライ・ハルトマンの講義を聞いた後、フライベルク大学のハイデッガーのもとに行かれることになった。西谷先生はこの留学の間に『西哲叢書』の「ベルグソン」を書き上げられるつもりだったらしい。しかし実際にハイデッガーのもとでまとめられた論文は、西谷先生の処女策論文集『根源的主体性の哲学』の第一論文として収められた『ニィチェのツァラツストラとマイスター・エックハルト』であった。その論文は石原謙編纂『哲学及び宗教と其歴史―波多野精一先生献呈論文集』に海外から寄稿されていた。

では、「ベルグソン」はどうなったのだろうか。西谷先生が亡くなられる一年ほど前に、わたしは一度だけ西谷先生に「どうしてベルグソンだけは未完のままに終わってしまったのか」と、お聞きしたことがある。そのとき西谷先生は�犖狭討箸靴討禄颪�上げてある�瓩噺世だ擇蕕譴燭海箸�ある。�爐┐鱈瓩隼廚辰董∪消�先生のご自宅の帰りに原野栄二先生のご自宅にお寄りして、そのことを原野先生にお話しした。原野先生は『西哲叢書』を企画、編集に当たっていたこともあり、後日原野が西谷宅を訪問し、「ベルグソン」の原稿の行方について話し合われたようである。そこでも西谷先生は「ベルグソン」の原稿はたしかに書き上げてあると明言されたらしい。しかしその原稿にはまだ若干手を入れたい個所もあるので、一応「ベルグソン」という原稿はないということにしたいと翁氏になり、原野先生もそのことを了解し、西谷先生と原野先生のお話し合いの中で『西哲叢書』の「ベルグソン」は永遠に未完のままに終わらすということにされたらしい。しかし西谷先生は「ベルグソン」という原稿において西谷先生はベルグソンとどのように対決していたのか、そんな思いに駆られるのは、わたし一人ではないと思っている。

はたして西谷先生は『西哲叢書』の「ベルグソン」を引き受けたとき、どのような構想をもっておられたのだろうか。その一端を下村寅太郎・淡野安太郎共編『哲学研究入門』(小石川書房)のなかで西谷先生が担当されている�狃ゞ掬�学�瓩箸い�項目のなかで、ベルグソンの宗教論を次のように書かれている。「最後にベルグソンには、現代の諸問題に立ち入って、機械的なものと神秘的なるものが相佚つべきものであること、前者のみが追求された結果様々なる問題が生じている現在、後者への顧慮の必要であることを論及している。」と。この西谷先生の�爛戰襯哀愁鵑僚ゞ杵性瓩亡悗垢誅製劼蓮□禝ヽE�なもの≫という科学が現代にもたらしたニヒリズムという問題を、ニヒリズムの底を底抜けていくところに開けてくる空の立場に立つことによってニヒリズムを彫刻しようとする西谷の宗教哲学的思索を彷彿とされるものであり、エックハルト等の神秘主義或いは禅仏教等の究明に見られるように、≪神秘的なもの≫の本質に、虚無を徹底していくことによって虚無を底抜けしていく絶対無を見出そうとする西谷先生の思索的まなざしを感じさせる論述である。このように西谷先生は早くからベルグソンのなかに現代のニヒリズムという問題と対決していく新しい宗教哲学の可能性を見出していたのかもしれない。そんな意味からも西谷先生の書かれた「ベルグソン」に一層関心が高まるのである。

西谷先生の三回忌を前にして、西谷先生の書斎から『西哲叢書』の「ベルグソン」らしい原稿が見つかったという話を聞いたことがある。当時はまだ『西谷啓治著作集』(創文社)の完結間際なこともあり、活字になるのではないかという期待が持てる話も聞こえてきた。しかしそんな話を聞くと、「困ったな」という顔をして、煙たそうに煙草のけむりの行方を眺めている西谷先生のお姿が浮かんでくる思いがしたのである。

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