録画しておいた(そして今ごろ見ている)古畑任三郎シリーズの再放送で気になる役者さんがイたので調べたらセガールの娘さんでした。見覚えのある顔立ち……と思ったのは完全に錯覚でしたよあはは。
藤谷文子さんというのですねー。画像検索で納得。
ちなみに古畑任三郎は沢口靖子回『EPISODE15/笑わない女』でした。
あらすじとか分析とか、ありました。
http://homepage3.nifty.com/furuhata/contents/episode/episode15.html
以下余談。
白湯をちっともおいしくないと(人間的に)思い続けてきた告白あたりの鋭い批評眼がいいなあと思いました。
そのあたりに触れた感想もネットに残されています。さすが名高いシリーズだけあって19年(!)の時を経ても日々振り返られているのですね。
http://ameblo.jp/mephist666/entry-11299151367.html
>古畑は犯人に
>「戒律の中に『人を殺すなかれ』という一文がなかったのが、
>悔やまれてなりません」
>と告げるが、しかし、自分はこうも考える。
>この事件があったからこそ、
>犯人は自分の気持ちを人前でで表に出せるようになったのだ。
いいですね。
すばらしい読み手に恵まれた脚本になりましたね!
戒律のむなしさや無意味さが前提にあってこその読みです。だから脚本の想定の内だと思います。でも欲張ってそこを前面に出さないところが三谷幸喜という人のすごいところなんでしょう。
古畑警部をしてからに「人は自由意志で人生を選んで、好んでありようを決めているものだ」と思い込んでいます。視聴者もそうです。けれども自由意志があるにも関わらず自由意志より上位の戒律を持つ人間がいる。恐ろしいことです。
ドラマ内では決して踏み込んでいません。でも、宗教という装置の恐ろしさを感じさせました。
宇佐美ヨリエほどでなくても人はたいていのことはしてしまうことができるものですよね。宗教や戒律、そのほか「信じる」という鎧に身と心とを包めば。
宇佐美ヨリエが守った「〜すべからず」は難しいけれど、「〜せよ」は一瞬のことだから容易です。「殺せ」などはずいぶん低いハードルに違いないのです。
バモイドオキ神のお告げに従って殺す人(酒鬼薔薇聖斗)に「ダメだ」と言う私たちです。なら、それよりずっと容易ななにかを実行することもやっぱり「ダメだ」と言うべき。でなければ都合によってリクツを出したり引っ込めたりするバカですから。
盲目に従うのはつねにダメで、批評眼を持ち疑いと確認作業とをしつづけるのが人として唯一まともな道なんでしょうね。
それらを必要十分以上に持ちながら、それでも戒律に従うほうを選んだ怪物が宇佐美ヨリエなんでしょう。怪物とは申せ、普通の人間よりほんの少し度を越しているだけ、というのが、恐ろしいなー。
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