mixiユーザー(id:26450852)

2015年01月26日10:47

500 view

この国の「自己責任」論

■極端な「自己責任論」の台頭、社会崩壊を招く?
(JIJICO - 01月24日 09:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=180&from=diary&id=3241072

最近、やたらに「自己責任」という言葉をよく見たり、聞いたりする。とりわけ「イスラム国」日本人人質事件が起こって以来、ネットの書き込みには「自己責任」論という言葉が出てくるようになっている。しかしこの国で論じられている「自己責任」論の正体とは何なのだろうか。イラク人質事件を通して盛んに論じられた「自己責任」論から、この社会の一断面が見極められるように思えるのである。

 では、そもそも「自己責任」とは何か。「自己責任」がマスコミなどで論じられるようになったのは、規制緩和や金融機関におけるペイオフが論じられるようになってからのことである。そこで論じられた「自己責任」とは、競争原理に基づく経済活動におけるリスクは、結果責任としてその活動当事者に帰するということであった。もちろんそのような「自己責任」は経済活動に関するあらゆる情報公開が前提として論じられてきたのである。

 たとえば、ある人がある銀行に多額の預金をしていたとする。そしてその銀行が経営破たんした場合、ペイオフ制度では二千万円を超える預金は預金者のもとに返って来ないことになる。そのときの預金者の損失は「自己責任」として預金者本人に帰することになる。しかし預金者に対して預金の損失を「自己責任」として問う場合、その銀行はつねに経営状態をすべての預金者に情報提供する義務を負わねばならないことになる。なぜなら銀行側からの情報提供なしに預金者は自分が預金している銀行の経営状態など知ることはできないからであり、預金すべき銀行であるか否か判断することはできないということになる。つまり「自己責任」とは、どこまでも相手の立場を考慮し、いかにしてフェアな環境を作り出すかということを前提とした責任論であり、そのためにも情報公開の原則によって成立するのであった。

 「自己責任」というと、すぐに競争原理に基づく経済活動の象徴のように語られているが、そもそも競争原理とは、フェアな環境が整った上で機能する原理なのである。個人と企業や行政との情報量の格差をなくさなければ、真に経済活動の結果責任を個人や企業、行政に等しく問うことはできないという発想があった。むしろ企業や行政が保有している情報公開なしに、ただ単に「自己責任」を問うのであれば、それはただの�犲綣圓い犬甅瓩任靴�なくなる。その銀行がどのような経営状態にあるのかを公平にオープンにすることなく、ベイオフなのでそのリスクは負ってもらうというのは、フェアではない。
 
 言い換えると、情報公開によっていかにフェアな環境を前提とすることなくして、「自己責任」は問えないということなのである。「自己責任」という言葉は、ただ単に自分の行為の結果はすべて自分が負うという意味ではなく、そこには「自己責任」が問えるだけの環境が用意されているという前提において用いられるべき言葉なのである。

 そもそも責任(responsibility)とは、「ある約束に対する応対、保証」という意味なのである。言葉の意味からいうと、責任とはある約束があってはじめて成立してくる事柄だということになる。約束とは、相手との間で取り決めを行うことを意味する。その相手がこの取り決めに値すると認めることであり、約束とはまずは相手を認めるところからはじまる。つまり責任とは、両者の間で取り決めた約束に対して応対や保証がしっかりとできていたかどうかということを問うことなのである。このような責任という言葉の本来的な意味からすると、果たして「自己責任」という言葉はどのような意味になるのか、改めて考えてみる必要があるように思われる。

 今回の「イスラム国」日本人人質事件に対するネットなどの書き込みを見ていると、「自己責任」という言葉を自業自得という意味や結果責任という意味を混合して用いているように思われる。「自業自得」とは、仏教用語で、自分の行為の報いを自分自身が受けることを意味しており、自分自身が受ける報いとは一般に、悪業の報いを受けることにいうことを意味する。あるいは、結果責任とは、動機がどうであれ、結果によってその行動の善し悪しが決められ、責任が問われるということである。

 たしかに後藤健二さんも湯川遥菜さんも危険な戦闘地帯に自らの意思で行ったのかもしれない。しかしながらそれは彼らの意思だったからといって、日本政府が�猖�人保護�瓩寮嫻い鯤�棄していいことにはならない。もっといえば、湯川さん、後藤さんが「イスラム国」に拘束されているという情報は昨年の10月ごろから日本国内でも語られていた。わたしのような一般国民でも昨年の10月ごろにはそのような情報に接してきたのだから、外務省はもっと以前からそのような情報はわかっていたであろう。少なくとも湯川さんが拘束された可能性があるという情報は外務省としても把握していたと考えられる。しかしながらその間、外務省は一体何をしていたのだろうか。今年の1月20日に「イスラム国」の日本人人質事件のビデオ配信を見て初めて、日本人克服の事実を知ったというのであれば、外務省はその間いったい何をしていたのだろうか。外務省には「外務省設置法」という法律があって、その第四条に�牾位馨覆蓮∩鮎鬚稜ぬ海鮹�成するため、次に掲げる事務をつかさどる。�瓩箸△蝓△修痢峩�.海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全に関すること。」とある。つまり日本国政府は、日本国民がいかなる危険な地域にいようとも、�猖�人保護�瓩里擦�にんはあるのである。

 今回の「イスラム国」日本人人質事件を見ていると、北朝鮮による日本人拉致事件と重なってくる。北朝鮮による日本人拉致事件も被害者家族が国会議員会館を回っても、自民党、社会党、その他政党で家族会の人の話をまともに聞いてくれる人はいなかった。そんな中で家族会の声を聞き、まともに取り上げたのが今の首相である安部晋三であった。しかしながら今の安部晋三を見ていると、本当に北朝鮮に拉致された日本人を北朝鮮から救出したいという思いだけで、家族会の声に耳を傾けたのか否かは大変疑わしくなっている。というのも、この北朝鮮による日本人拉致事件を日本国内に大々的にアピールすることで現行憲法の第九条がいかに無力な条文であることを国民に知らしめることができる。つまり北朝鮮による日本人拉致事件を�狎�治的利用�瓩垢襪海箸砲茲辰董�憲法改定という機運を国民運動にまで押し上げることができるのではないかという�猝椹鮫瓩�あったのではないだろうか。だから安部晋三の�爐澆辰箸發覆し�法�瓩箸いΩ斥佞砲弔覆�っているように思えるのである。今回の「イスラム国」日本人人質事件も、その事件を�狎�治的利用�瓩垢襪海箸砲茲辰董�日本を�狎鐐茲里任�る国�瓩砲弔�りかえようとしているのではないだろうかと思われてならないのである。

 では、彼らの行動はそれほど非難されねばならない行動なのであろうか。何かの法律に違反するような行動なのであろうか。あるいは結果責任を問うならば、彼らの行動の結果とは何だろうか。人質になったことが彼らの行動の結果だと決めつけていいのだろうか。そもそも結果とは誰が決めるのであろうか。それ以前にわたしたちはどれだけ彼らの考えや思いを聞いてきただろうか。いや聞く姿勢はあっただろうか。わたしたちは彼らから何も聞かずにただただバッシングをはじめたのではなかったのだろうか。

 このように考えてくると、今回のイラク人質事件に対して「自己責任」が問えるのであろうか、あるいはそもそも「自己責任」として論じられる事柄なのであろうかと疑問にさえ思われてくる。もしも今回の人質事件で「自己責任」が問われなければならないとするならば、そのときの「自己責任」とはどのような意味を持つのであろうか。今回、人質になった後藤健二さんは戦場で苦しんでいる子どもの日常を中心に報道してきた。その報道によって、戦争は所詮、社会的弱者、子ども、女性、老人を苦しめる�狃乎津�リンチ�瓩里茲Δ覆海箸砲曚�ならない、�犇鮃圻瓩任靴�ないことをわたしたちに見せ、伝え、教えてくれたのではないだろうか。戦場でしか生活できない子供たち、女性、そして老人たちの身に起こっている悲劇、�狎鐐茲箸いμ召龍鮃圻瓩鯏舛┐燭ぁ△修靴得鐐茲糧畛瓦気鯏舛┐燭い箸いμ榲�をもってシリアや「イスラム国」周辺に向かったのだと聞く。そして今回は友人である、湯川遥菜さんの救出に向かったと聞く。そのような行動は本来、日本政府がやるべき行動であったのではないか。しかしながら日本政府は一切行動を起こさなかった。だから仕方なく、後藤さんが身の危険を顧みず、行動に移したのではないだろうか。もしもそうであるのならば、バッシングすべきは、安部政権であり、外務省ではないだろうか、にもかかわらず、この国では後藤さんや湯川さん、そしてその家族を叩くだけ叩く。バッシングするだけバッシングする。それも�狃乎腸修靴騰瓩靴�も�狷震召猫瓩任△襦�わたしはそこに、今の日本社会の病巣を見出すのである。相手が自分より強い者には文句の一言も言わず、反対に相手が自分より弱いも思えば、叩くだけ叩く。ヒステリックにバッシングする。わたしは、そこに現代日本社会全体に蔓延している�犲�己肯定病�畆�分は絶対に正しく、相手は絶対に間違っている。自分は絶対的に善であり、相手は絶対的に悪であるという病にかかっているように思えてならないのである。

 そもそも近代国家の成立理由は、自国民の保護にあるとよく言われている。その自国民とは、政府の方針に従順である人のことだけを意味するのではない。政府の方針に反対して行動をとる人もまた自国民なのである。つまり政府はその人の政治的、宗教的信条、社会的地位に関わらず、自国民である限りその命を守るということを約束しているのであり、その約束に近代国家の成立理由があるである。このように考えていくと、今回の人質事件での「自己責任」論は政府自身の成立理由さえも否定してしまう危険性を孕んでいるのであり、外務省のこの数カ月の行いは、まさしく自国民の生命保護という外務省の「外務省設置法」にも反する、無責任極まりないように思われてならないのである。

 では、そもそも民主主義とは何か。それは多種多様な国民の意見から多数意見を形成していく作業のことであり、その過程において少数意見をも最大限に尊重していくということだと、わたしは考える。つまり民主主義とは、自分の意見とは異なる意見をもつ他者の存在を認め、その意見もまた受け入れていくという約束の上に成立しているのである。ことである。しかしこの国ではその民主主義が成熟していないように思われる。他者を受け入れられないこの国や社会の未成熟さが見えてくるのである。それは、今小学校などで生徒が教師の話を全く聞かず、好き勝手におしゃべりをしたり、教室の外へ出て行ったりする、いわゆる�牾惶虔�壊�瓩箸いΔ茲Δ文従櫃忙�ている。�牾惶虔�壊�瓩覆蕕漫↓猝閏膽腟訴�壊�瓩箸いΔ戮�現象なのである。そのような現象の象徴が今回の「イスラム国」日本人人質事件での「自己責任」論であるように、わたしには思えるのである。

 今回の「イスラム国」日本人人質事件は、この国の政治や民主主義の成熟度を問い、そしてそれらの成熟度に対する責任をわたしたち国民一人ひとりに問いかけているように思われる。そして�爛謄蹐箸寮錣き瓩箸いぁ�武力に対して武力でしか答えられない現代という時代において、自分とは異なる他者を受け入れるということは極めて重要な事柄であるように思われる。むしろ自分とは異なる他者を受け入れるということはから、新しい時代が切り開けてくるように思われるのである。

 では、他者を受け入れるとは、いったいどのようなことなのか。この問いかけに真摯に向かい合うことが今を生きるわたしたちの「自己責任」なのかもしれない。


註)このエッセイは、2004年に起こったイラク日本人人質事件の際、「自己責任論」が巻き起こった時に書かれたものである。あの時も「自己責任論」が声高らかに論じられた。しかしNGO団体にせよ、個人にせよ、このような事件が起こる度、日本社会に「自己責任論」が声高らかに叫ばれるのを見るたび、この国の国民は本当に大丈夫かと思ってしまう。いや、11年たってこの国の劣化してように思えるのである。

3 5

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する