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2015年01月25日04:32

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メモ:「自己責任論」で中世に退行する日本

 古谷経衡さんという方の論述をメモします。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/20150125-00042523/

 から一部を抜粋。

◆

「動機が不純」は関係がない
遡ること、2004年のイラク日本人人質事件の際には、人質になった3人は、既に外務省から出されていた渡航自粛勧告を無視する形でイラクに入国し、拘束された。今回拘束された湯川さんも、内戦状態のシリアの深刻な状況を認識した上で、語学能力にも事欠く状況で渡航した、とされる。後藤さんは拘束前、「何が起こっても、自分の責任」というメッセージを残している。

今回、「危険を承知で」あえてイスラム国の近傍に渡航した二人に、全く何の落ち度もないのか、というと、特に湯川さんの方には、経験や知識という意味で問題がありそうだ。更に、渡航の動機も、「一旗揚げたい」「冒険したい」みたいな想いが、もしかするとあったのかもしれない。が、その「落ち度」と、「海外で生命の危険に晒されている同胞を国家が救助する」というのは、全く別の問題だ。

「動機が不純だから」とか「当人が危険性を予め承知していたから」などという理由で、「国外で危険に晒されている同胞を助ける必要はない」という結論に達するならば、これはもう「近代国家」の根底が崩壊することになる。


(略)


なぜ同胞意識がなくなったのか
今回の誘拐事件で、「自己責任論」を高らかに言うのは、所謂「保守系」と目されるネット上の勢力が根強い。彼らの言い分は、「国家の税金によって、身勝手な連中を助ける必要はない」という意見に集約されている。

どれほど身勝手で不純な動機だろうと、同胞であるかぎり死力を尽くして助けるのが国民国家の原則であるのは、明治冒頭の台湾出兵の事実で明らかだっただろう。

「自分たちは働いて、まじめに納税しているのだから、”海外で無茶をする連中”を助ける必要など無い」

というのが、彼らの意見である。「納税者でないものは、人に非ず」とでも言いたげな、典型的な「強者」の理屈である。

国家に貢献しないものは、庇護する必要はない―。この考え方を突き詰めれば、例えば生活保護の受給者そのものを蔑視したり、社会的弱者を嘲笑する、という昨今のネット上の風習に行き着く。

ネット上で保守的な見解を表明するクラスタは、大都市部に住む中産階級が多い、というのは、私が実施した独自の調査によって明らかになりつつある。彼らは経済的にも社会的にも「強者」であるがゆえに、「自己責任論」を振りかざして憚りないが、自分がいつでも、不慮の事故や病気で「庇護される側」に回る可能性がある、という想像力を欠いている。

◆


(超耳)

 全面的には支持できません。けれども大筋でまっとうな意見だと考えます。

>自分がいつでも、不慮の事故や病気で「庇護される側」に回る可能性がある、という想像力を欠いている。

 ここが、大いに弱点ですよね。間違っているわけではありません。でもこの指摘には意味が無い。自己責任論者がとうに通過しているところをなぞっているだけだからです。
 自己責任論者はすでに言っているのですよ。
 「もしも自分が危険地帯入りした場合にも自己責任だから見捨てて構わない。」
 と。
 そんな相手に「お前だって弱者になるかもしれないんだぞ、考えろ」という指摘は無効です。

 同じ土俵に立つ必要はないのです。
 不勉強な者たちには「不勉強だ」という指摘をすればいいと私は考えます。

 憲法で保証された権利でもなんでも、囚われの身になった人たちの命を保障するものを「お前たちは不勉強だ」という言葉とともに挙げるだけで十分では?
 ただし、それらを知らない子供向けの話となれば別です。できるだけわかりやすく、国が国の体を成すために最低限必要なことを説くべきでしょうね。そしてすべての子供たちに一定の考えを醸成するべきだと思います。すなわち、
 「主権者である国民の命をないがしろにする国など、存在意義が瓦解する」
 と。

 それだけでたぶん十分ですよ。
 同じ土俵に立つといつまでも反論が終わらなかったりするものですから。

 あとタイトルもよくないですよね。私たち1億2700万人の中に数十人だか数百人だかその何倍だかのバカな個体が混じっているとしても、日本が中世に退行なんかしちゃいません。
 むしろ逆です。そんなとてつもないバカでも生きていることが保障されている。バカ意見を表明しても逮捕もされないし危険が身に及ぶ心配もほとんどない。「このバカ」と言われるだけで何一つデメリットがないなんて、中世なんていう暗黒の時代には考えられないことです。
 ちょっと大げさに言ってしまうクセのある人なんでしょうね、古谷さんは。そのために間違いをしでかすタイプ。
 中世ではないことを示す証拠を見て「中世だ」と間違いをしでかしましたね。ここは他山の石とするべきなんでしょう。



 さて、古谷さんの論を離れて、少しコメントしてみますね。
 自己責任を問うてはいけないのか? という点です。古谷さんの論では自己責任を言う人間があまりにもダメなせいか自己責任を追及すること自体が否定的に書かれているように思います。
 でも自己責任だって必要な考え方ですよね。
 古谷さんによって攻撃されている自己責任論者がダメなのは、国として人質の人たちを見捨てるべきだとか、死んでもかまわらないとか、そういう暴走をしているからです。
 自己責任だって言っていいんです。
 「今のこの事態を避けられなかったのは、彼ら自身にも大いに責任がある」
 これなら間違っていない。
 これから犠牲者を増やさないためにも言うべきことだと考えます。

 古谷さんの意見も、それから自己責任論が暴走している人の意見も、聞きました。後者のはいちいちメモしていないですけれども。
 他人の意見に耳を傾けること、大事です。そして感情で判断せず理性に照らすこと、とても大事です。私たち単独の頭脳では性能が低すぎるからです。誰だって多かれ少なかれ間違うし、思い込み、感情の紛れ込みが起こるものだと思います。
 だから他人の意見を聞くんですよね。さらに、添削するんですよね。いいところは「いい」と言い悪いところは「悪い」と言う。そうやって残った意見が自分の意見です。丸写し、剽窃はダメなんです。どんなに心にすっと入ってきたとしても。私の言いたかったことを言ってくれたと思ったとしても。そんなのは間違いの第一歩です。

 面倒くさいですけれどね。
 でもやらなくちゃいけないからやるのみです。
 面倒くさいという理由で私たち自身の人生一回目を棒に振りたくないではないですか。
 サンプルに事欠かない、どうしようもなくみじめで醜い性根の人たちみたいに生きてそのまま死んでいくのなんて、まっぴらごめんのぷぅじゃないですか。
 人生の第一箇条に「面倒くさいからやらない」を掲げている人は多いですよね。7割くらいがそうだと思います。考えるのが面倒な人はもちろんそうする権利があります。と同時に、考えてくれた人に逆らわないという義務も負うのでしょう。
 私個人は間違っているかどうかもわからないのに従うのはどうしてもイヤなのです。

 まだ一回目の人生ですけれど、一度きりで終わりですからね。
 毎秒毎秒が初の体験で、しかも二度目がない。

 他人の目も耳も頭脳も利用させてもらって、かつ自分のそれもぜひぜひ利用してもらって、一回目だけれどそこそこまっとうに生きられたなと思いながら生きて死んでいくのがいいじゃないですか。ねえ?
 身体能力も、容姿も、いろんな何もかもを選べないけれど。
 どう生きたかだけは、自分だけの判断で選べるんですよね。
 自己責任で。


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