新しく始まった赤毛のアンのアニメ(「アン・シャーリー」)批判が吹き上がってる。
原作を理解してないとか、高畑さんが作った前作「赤毛のアン」との比較とか。それについては、私は「アン・シャーリー」観てないし、モンゴメリーの原作も子供の頃読んだ程度で、特に思い入れがあるわけでもなく、昔のアニメも観てない。
だから、それについてはなんのコメントも出来ないけど、個人的に気になった、というよりちとカチンときたのは批判してる人たちの中で
「「ベルばら」とか「赤毛のアン」とか原作を改変したリメイクが云々」
って、関係ないのにベルばら出してることが多い事。
いや、赤毛のアン批判したいならアンだけにしろよ。ベルばら関係なくない?フランスとカナダだしい〜。
で、「アン・シャーリー」叩きたいから「ベルばら」引き合いに出す人たち、果たして「ベルばら」観たの?って思ったわけ?
少し前にSNSで批判されてたなあ〜程度の記憶で言ってるんじゃなかろうか?
これはアンやベルばらに限らず、SNSで評価(しかもマイナス評価)を読んでいると、何となくその意見に引っ張られてしまうことがあるんじゃないかと。
特に普段からその人の意見に親和的だったり、批判内容に筋が通っていたりすると余計に。
「白雪姫」とか「べらぼう」でも、とにかく批判意見が湧いて湧いて。
私はひねくれたところがあるから、逆にそれだけ批判されてるなら観てみよう位に思う人ではあるんだが、とはいえ家で無料で観られる地上波のテレビならともかく、わざわざ映画館に足を運んで料金払う映画だと、そこまではしないなあと。
批判は自由だし、むしろ好きな作品であっても批判意見を読んだだけで「私は傷ついた〜」みたいに大袈裟に騒ぐ奴の方が言論の自由の敵なんだけど、批判意見を山ほど目にすると、見てもいないのに見たような気になって批判意見で醸成された脳内作品が出来上がって勘違いしたまんまになってしまう。
だとしたら、これは勿体ない。特にもともと興味ないどうでもいいジャンルならともかく、ある程度普段から興味ある、好きな作品なら尚ね。
また、批判意見の中には、作品自体の批判からずれてる内容も多い。
これ「べらぼう」第一回放送後に批判噴出したけど(前の方に日記書いたけど)中には、というより多くが作品批判というより「売買春批判」「性搾取反対」という主張だった。
いや、私だって性搾取には大反対よ、今のフジの問題とか吐き気がするし、オタクとか勘違いしてロリエロ美少女絵を垂れ流す現象にも呆れてる。
ただ、蔦谷重三郎を主人公にして江戸の大衆文化を描くドラマで吉原というものを抜きにして語れないジャン。
それを「性搾取性暴力を肯定してる」とか、松本人志の事件やトー横の悪質ホスト問題と絡めて批判してた意見とか出てきて、もう「べらぼう」関係ないじゃん。
確かに吉原で行われていたことは人身売買によって女性を使い捨ての性搾取商品にしたとんでもない人権侵害だし、だからこそ当時の人権感覚でさえ茶屋の経営者たちは忘八と呼ばれていた。
一方で浮世絵や歌舞伎など今でも私たちが楽しんでいる文化は吉原の存在があったからこそ生まれたのも歴史的な事実では、とか思ったしそういう意見も書いたんだけどね。
で「そんなにひどい番組なら辛くて見られない」みたいに呟いていた人とかもいて、まあ、別に大河ドラマなんて見ないからって別にどうってことないけど、その人は私のつぶやき読んで初めて蔦谷重三郎の事をしって
「出版の話なんですか、私は風俗王の話かと思ってました」と。
いや、ググれよって思ったよ。
何がいいたいかというとね。
批判するならその作品を観てから批判しよう。
SNSの意見の大勢が自分の意見と必ずしも一致するとは限らない。
批判意見はあくまでも参考程度にとどめておいて自分の目で確かめようよと。
ネットの批判を真に受けて「ベルばら」の映画観なかったら損してた私の反省も含めてでした。
(そこかよ(^_^.)
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