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2024年09月23日07:24

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西田哲学の深淵さと難解さの源泉

 土砂崩れでむき出しになった山肌を、大量の泥水が流れている。押しつぶされた住宅や、川の氾濫(はんらん)で浸水した街並みの映像に言葉を失う。元日の地震から8カ月余りがたった能登半島の北部を、大雨が襲った。「どうしてまた能登が」と思わずにはいられない▼詳しい被害状況はまだわからないが、亡くなった方もいる。石川県輪島市と珠洲市では仮設住宅も床上浸水したという。地震で被災して暮らす場所から、また避難しなければならない不条理さ。能登町も地震の際には、道路の寸断などで孤立の苦しみを経験している▼重なる災害に、戦前の日本を代表する哲学者の西田幾多郎(きたろう)が唱えた「絶対無」という言葉が浮かんだ。現在のかほく市に生まれた西田は、『善の研究』で知られる知の巨人だ▼西田は禅に親しみ、西洋哲学に東洋の思想を融合した。妻子や友との相次ぐ死別など多くの不条理を経験し、悲しみの中で自己を見つめ続けた。難解な言葉を咀嚼(そしゃく)すると、自分ではどうしようもない状況で達した境地にも思える。乗り越える、乗り越えたいのだと▼西田は短歌も多く詠んだの。大切な命は自分で守れ、津波が来たらばらばらに逃げろという「てんでんこ」の教えにもつながるような気がした▼〈わが心深き底あり喜(よろこび)も憂(うれひ)の波もとゞかじと思ふ〉。人間の心は果てしなく深い。能登の優しい人々の心の底までは届かなくても、ただただ無事であって欲しいと祈る。
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上記は、昨日の朝日新聞の(天声人語)「能登の大雨」の全文である。

このなかで西田幾多郎の〈人は人吾(われ)は吾なりとにかくに吾行く道を吾は行くなり〉と〈わが心深き底あり喜(よろこび)も憂(うれひ)の波もとゞかじと思ふ〉の二篇の歌が紹介されている。

これら二篇の歌は、西田幾多郎が京都帝国大学文学部哲学科哲学分野の主任教授時代のものである。

前者の〈人は人吾(われ)は吾なりとにかくに吾行く道を吾は行くなり〉という歌は、カール・マルクスの思想が京都帝国大学の哲学科でも流行し始めた頃の歌で、それと自分の後任として招聘してきた田辺元に『西田先生に教えを請う』という西田哲学に対する批判論文を『哲学研究』という京都帝国大学文学部哲学科の学術論文に掲載され、自分の哲学が自分の後任に年て招聘した田辺元にも理解してもらえないのかという失望に陥った頃の歌であり、西田幾多郎と田辺元とはこれ以来、絶交状態が続くことになる。

後者の〈わが心深き底あり喜(よろこび)も憂(うれひ)の波もとゞかじと思ふ〉という歌は、西田が�犲�覚�瓩領�場から�狆貊雖瓩箸いξ�場へと自らの哲学体系を深化された頃の歌である。�爐錣�心深き底あり�瓩箸蓮△泙気靴�西田哲学の代表的な立場である�狎簑侈気領�場�瓩謀�達したことを読んでいる。そしてその�狎簑侈気両貊雖瓩箸いξ�場は�狎こΝ瓩箸いξ�場に深化されていくのである。

西田幾多郎は、その人生は決して恵まれていたものではなかった。若くして父親の商売の失敗により実家は没落し、さらに旧制高等学校を中退し、東京帝国大学の専科にしか入学できず、大学卒業後も就職もままならず、妻の実家の父親に離縁を言い渡され、妻とは別れるという辛苦を舐めている。

京都帝国大学にも主任教授の留学の留守番をするという形で宗教学の助教授として着任した。決して恵まれていたわけではない。そして西田はその家族も第三高等学校の学生で最も期待していた長男、そして娘たちの死も経験している。

西田哲学の深淵さと難解さは西田幾多郎自身のそんな人生からきているのだと昨日の朝日新聞の天声人語から改めて考えさせられたのである。
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