■元横綱2代目若乃花、元間垣親方が死去、69歳 4度の優勝
(朝日新聞デジタル - 07月18日 13:22)
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大相撲七月場所九日目、横綱照ノ富士は前頭五枚目遠藤に中に入られ右差しで土俵際まで追い込まれながら、左から小手に振って力で捩じ伏せ押し出しに退け二敗を守り、逸ノ城が霧馬山を寄り切りに仕留め、琴ノ若が関脇若隆景を寄り切りで一蹴、翔猿が志摩ノ海を叩き込み、錦木が翠富士を極め出しで制し、新入幕の錦富士が同じ二敗だった対戦相手一山本が部屋の師匠(放駒親方:元関脇玉乃島)の新型コロナウイルス感染確認にともなう部屋力士一斉休場にともない不戦勝となり、この6人が賜杯レースの先頭グループを形成する展開となりました。
横綱照ノ富士が遠藤に苦戦しながら力で押し出しに仕留めて“弔いの白星”を挙げましたが、この一番について、協会の八角理事長(第61代横綱北勝海)は、土俵際は危なかった。苦戦の土俵だったとした一方、「体が常に動いている。不利な体勢でも止まらなかった。自分の体勢に持って行こうと、引っ張り込んで振りほどいている」と、遠藤に見せ場を作られながら確実に勝ちに結びつける横綱相撲を評価していました。その照ノ富士が大相撲に入門した際の師匠だった第56代横綱(二代)若乃花が肺癌のため大阪市内の病院で亡くなったことが、一番のニュースになった感じの一日だった気がします。
昭和43年、当時の二子山親方(第45代横綱(初代)若乃花)の眼に留まった下山勝則少年は、一つ上で少し遅れて横綱(第59代)に昇進する高谷俊英こと隆の里(後に鳴戸親方。師匠として若の里(現在の西岩親方)、稀勢の里(第72代横綱)らを輩出)と一緒に青森から夜汽車で上京し二子山部屋(当時)に入門、左四つで投げや外掛けを得意とし、若三杉の四股名で活躍、美男力士でその粘り強さで人気を集め、昭和53年に第56代横綱に昇進しましたが、肝臓の不調や怪我などで30歳を前に引退、幕内優勝は4回にとどまりました。
師匠の娘と結婚し離婚、年上のホステスと恋仲になって再婚するなど異性関係ではいくらか難のあるところがあり、二子山部屋から分家独立して間垣部屋を興し、若闘将、若ノ城、五城楼(現在の浜風親方)、大和、若ノ鵬の幕内力士はじめ8人の関取を育てましたが、存在感を示したのは平成8年、当時の境川理事長(第50代横綱佐田の山)が年寄名跡について「協会が管理し売買禁止とする」という改革案を示したことに反対し、翌年にその先頭に立って撤回させ、平成10年の協会の理事改選をめぐり同じ「反対派」だった当時の高田川親方(元大関前の山)とともに立候補、初の選挙に持ち込んで当選。境川理事長の理事長続投を断念させる原動力となったことでした。
協会理事としては、大阪場所(三月場所、春場所)担当部長を10年務めましたが、平成17年に夫人に先立たれ、平成19年の三月場所中に脳出血で倒れて車椅子生活を余儀なくされ、翌年には部屋の序二段の弟子を竹刀で叩く事件を起こし、部屋の幕内力士だった若ノ鵬が大麻所持容疑で逮捕される事件を起こし、理事と大阪場所担当部長を辞任、平成22年の理事選で所属していた二所ノ関一門の意向に反して貴乃花(第65代横綱。当時一代年寄)親方の立候補を支持して破門され、貴乃花一門の結成に参加。照ノ富士はそんな中の平成23年に入門、「若三勝」の四股名を与えられていました。
平成25年、「体調の悪化」で間垣部屋を閉鎖、力士などは第63代横綱旭富士の伊勢ケ濱部屋に移籍、若三勝は「照ノ富士」に改名、追って協会を退職。しばらくは消息が明らかになっていませんでしたが数年前から大阪市の施設で過ごしていたようで、一昨年には元関脇の貴闘力(後に大嶽親方、賭博スキャンダル関与が認められ協会を解雇)のYouTubeチャンネル「貴闘力部屋」に出演、協会の現体制の批判などを口にしていました。容姿は現役時代や親方の頃とは全く変わりましたが、協会批判を語る熱弁ぶりは印象的でした。
一門を率い、理事となっていた頃を中心に65代支持を貫き、「貴乃花を守りぬいた親方」だった側面もあり、その支持者層から相応の評価もあったようでした。
享年69とのこと。合掌。
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