選ばれなくていいから。ただその人のために。
部屋のCDを片付けていたら、昔書いた作文がいろいろ出てきた。
で、出てきたのは教会の修養会の作文。中学一年のころ。
そう、一年だけだったが脅威階に通った事があるのである。まぁ。学校がプロテスタントの学校で。近所の教会に通うように言われたからなのだけどね。
キリスト教については、知識はあった。幼稚園のころ。記憶に全くないが、戦隊ショーでお約束観客(子供たち)さらっちゃうぞーで鼻叫喚の中、私は年下の後輩を身を挺して守ったらしく。その行動の心打たれた同級生のお母さんがくれた一冊の漫画が、聖書物語だったのである。・
閑話休題。
記憶には全くないのだけど、教会主催の修養会(泊りがけで。聖書について学ぶお勉強会)に参加したようで……教会の新聞に。感想文を載せてもらったのがでてきて、ほほーと読んだら。
楽しかった。でも「神に集められた」とか「精霊降臨」とか言われてもよくわかんね! まあ、知識不足は認める、勉強する。メインの講演ちんぷんかんぷん、もっと簡単な内容よと、あ、建物奇麗だった。友達出来てわーいわーい。来年も参加する!
であったとさ。よく載せてくれたなこんなもん。とほほ。
そんなトンでもな私が、何故なんとかかんとか一年間という短い間にしろ教会に通ったかというと。
それは牧師先生のためである。
小さな小さな教会で。子供礼拝(中学生とかそれくらいむけ?)のまえに、聖書についての弁妖怪があったが、集まるのは良くて3人。
ある日、当然のように遅刻して(当然私が一番落ちおぼれだった)。ごめんなさーいてへぺろ(死語)とお部屋に入った時のことである。
誰か先にいるだろーと思ったらだれもおらず、先生はきりっと姿勢正しく聖書を膝の上に乗せて、半分目を閉じていたのであった。
怒られる!
私はそう思った、でも、墨子先生は目をけると、優しい優しい笑顔になって、よく来たね、さあ座って、といったのである。
ああ、私も誰も来なかったら、先生は時間までずーっとこのまま待ち続けるのか、一言も怒らず、遅刻の理由も、待ってたとか遅いとも言わず、子供礼拝は開かれないまま、感話(聖書読んだりうったるするほかに、お話もある)にとっておいた、お話は語られないまま。
裏切れない。そう子供心も思ったのである。責任感というか。
まぁ、その後だって遅刻したりサボったこともあると思う。覚えてない。でも。お部屋に一人、静かに座り続ける人の影は、いまだに私の脳裏を横切る。
んで。なんで通うのをやめたかというと。次の一年生が入ってきたから。お役御免。というわけである。
私は言葉の神様位牌なんの宗教も信じていない(あえて言えば八百万の神々)が、宗教とはなんぞや、愛となんぞや、と考えるようになったきっかけでもあった。
なんでである調?
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