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2019年10月16日08:13

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信と賭 三願転入における二十願から十八願への転入―星野元豊師の『浄土―存在と意義』より

信と賭 三願転入における二十願から十八願への転入―星野元豊師の『浄土―存在と意義』より


わたしが星野元豊師の主著の一冊である『浄土―存在と意義』においてまず注目したのは次のような一文である。
「本書は西洋の宗教哲学を専攻している一書生がその自らの信仰と学問の問題を自らの手と足とでもって拓り開こうと苦しんできた素直な披瀝である。」
つまり星野元豊師の主著の一冊である『浄土―存在と意義は�犲�らの信仰と学問の問題�瓩卜�脚して〈浄土の存在意義〉を問うていこうとされた�狒把召僻籖有瓩覆里任△襦�わたしたちはまずその�犲�らの信仰と学問の問題�瓩肪輒椶靴討�こう。

◇〈浄土〉の存在異意義と三願転入
星野元豊師はその『浄土―存在と意義』において〈浄土〉の存在異意義を次のように書いている。
「浄土は人間のイデア的方向に輝いていながら、人間をしてこれに願生せしめることによって本質的には全く逆の方法へ進んでいるという役割、換言すれば、神へ反逆することが即ち神へ向かうことであるような働きをなすものでなければならない。神否定的方向に進むことが神肯定的方向に進むことになるということが浄土願生において成立しなければならない。」
まず〈浄土〉とは�狄祐屬離ぅ妊�的方向に輝いていながら、人間をしてこれに願生せしめることによって本質的には全く逆の方法へ進んでいるという役割�瓩鮹瓦辰討い襪箸いΔ海箸任△襦�
では、わたしたち人間はいかにして�狆�土願生�瓩�可能となるのであろうか。星野元豊師は、浄土門における入信過程をいわゆる三願転入に沿って論じている。その入信過程のなかでわたしが特に注目したのは、星野元豊師が二十願から十八願への転入を�狹劼凌��瓩箸靴届世犬蕕譴討い襪海箸任△蝓△修海�ら浮かび上がってくる�犧甍�深重・煩悩熾盛の衆生としての人間存在�瓩虜澆衢佑任△襦�わたしはこの点に罪悪深重・煩悩熾盛の衆生としての人間存在に対する星野元豊師の深い自覚があるように見受けられるのである。
星野元豊師は、二十願から十八願への転入について次のように論じている。少し長いが引用したい。
「今、十九願から二十願への転換を考えるならば、十九願は自己肯定の方向であり、二十願は自己肯定の方向に生きず待って自己否定の方向に転じたものということになる。従ってその努力の課題も諸善万行というようなものではなくして、弥陀一仏への帰命、専称弥陀名号である。しかし親鸞は十九願は勿論のこと、この自己否定に徹せんとする二十願の称名をも共に自力であるとした。なぜであろうか。十九願は自己の力に頼っての修諸功徳である。しかしそれに絶望したとき、それはキェルケゴールの弱さの絶望にも比すべき絶望である。その絶望に望みを与えたのは二十願である。しかし、その二十願の実践にも破れねばならなかった。それは彼が自己否定しようと努める努力が結局は彼自身の力に外ならなかったからである。彼が自己を否定しようと努めること、そのこと自信が自己の力に頼っている証拠である。自己否定への決意の底には、自己が自己を否定する力を持っているという意識がひそんでいる―たとえはっきりと意識されないにしても。そこには明らかに自己を認めている。ここに二十願の機が自力といわれる所以がある。この自己肯定こそ、あくなき人間の主我性である。そしてこの主我性の故に疑惑の心が時にきざすのであり、この主我性の故に信罪福心も起るのである。この主我性こそは十九願の機と二十願の機の奥底深く巣くうている自力の執心である。」
三願転入とは、十九願においては、阿弥陀如来の救いを信じる「信心」も、「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える称名念仏も、ともに�犲�力�瓩任△襪箸垢襪里紡个靴董�二十願においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える称名念仏は、自己の根底に阿弥陀如来の行だとする�狢称廊瓩任△襪箸垢襪癲�阿弥陀如来の救いを信じる「信心」は未だ�犲�力�瓩任△襪箸垢襦�これらの十九願、二十願に対して、十八願は阿弥陀如来の救いを信じる「信心」も、「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える称名念仏も、ともに�狢称廊瓩任△襪箸垢襪里任△襦�つまり三願転入とは、�犲�力�瓩�ら�狢称廊瓩悗瞭�信過程を示しているのである。
しかし親鸞が�狃酋經蠅鰐渭世里海函△海亮�己否定に徹せんとする二十願の称名をも共に自力であるとした�疝�由とは、�犲�己を否定しようと努めること、そのこと自信が自己の力に頼っている証拠である。自己否定への決意の底には、自己が自己を否定する力を持っているという意識がひそんでいる―たとえはっきりと意識されないにしても。そこには明らかに自己を認めている。ここに二十願の機が自力といわれる所以�瓩砲△襪里任△襦�

◇自力による自己否定の限界
星野元豊師は、親鸞が十九願の機、二十願の機共に�犲�力�瓩箸靴伸犲�己否定への決意の底には、自己が自己を否定する力を持っているという意識�瓩弔泙蠎�己肯定こそが�爐△�なき人間の主我性�瓩鮓�出し�爐海亮膕羸�の故に疑惑の心が時にきざすのであり、この主我性の故に信罪福心も起るのである。この主我性こそは十九願の機と二十願の機の奥底深く巣くうている自力の執心�瓩世箸垢襪里任△襦�そして星野元豊師は、この�爐△�なき人間の主我性�瓩寮蟻里鯏按貪�に問い詰めていく。その正体を暴いていこうとする。
「いま、われわれが正法について信じられないということは、たとえ積極的に謗法の罪は犯さないとはいえても、消極的には謗法ではないだろうか。少なくとも仏の誓願を信じえず、これに疑いをいだくということは仏の悲願をいやしめていることだけは確かである。これは謗法でなくして何であろう。この信じきれない私こそがまさしく謗法の大罪人なのである。しかしひるがえって思うに、この謗法の罪とはおよそ人間というものの生れおちると共に持っている罪ではないであろうか。疑うということは理性的存在者とよばれるものの逃げえない運命的な罪ではないだろうか。まことにそれは曠劫以来尽未来際、出離之縁あること無き原因であるところの罪なのである。」
星野元豊師は�犁燭Δ箸いΔ海箸詫�性的存在者とよばれるものの逃げえない運命的な罪�瓩箸泙埜世錣譴襦6畭綸�学の祖といわれるルネ・デカルトは一切を�犁燭Ν瓩海箸砲茲辰撞燭い�れない第一原理である〈コギト・エルゴ・スム〉に至ったといわれる。
「謗法闍提が弥陀大悲の対象であるとすれば、信ずることさえできない謗法闍提の私こそが悲願の対象ではないか。ひるがえって思ってみよう。わたしは十八願の至心信楽に頼って信じようとした。だが私は本来、信ずることさえできないような謗法の徒なのである。もともと信ずることのできない私が信じようとしたことそのことが間違いではないか。(中略)まことに信ずる力のない私が信じようとすること、それこそが私の慢心だったのだ。至心信楽の言葉によって信じよう信じようとあせっていたところに、自己の分を知らない思い上がったわたしがあったのだ。弥陀の大悲箱の不信の私を救うというのである。だが、本当だろうか。」

◇賭としての信
では、如何にしても仏の誓願を信じ切れない�爐泙気靴�謗法の大罪人�瓩砲箸辰討呂海陵�性的存在者の運命的罪としての�犁燭Ν瓩箸いΔ海箸蓮△錣燭靴燭舛鬚匹海貌海�のであろうか。
「賭は信である。二十願の専称弥陀女名号から十八願へ立ち向かう転機は自己否定の努力の連続における行から信への転機に過ぎない。自己否定の行から否定の決意への転機である。従ってそこでは本質的な転機はなされていない。(略)このような自己否定の根底には根本的な自己肯定的我性が横たわっている。この自己肯定的、自己主張的我性が十八願を自己の力によって信ぜんとする働きになってあらわれるのである。そこには信ぜんとする自力の思いがある。信じようとしながらもその信が理性的人間の信であるが故に、そこには疑念がある、相対的世界においては心は必ず疑を含んでいる。信じようと努力すればするほど疑の心も強まるのである。いま賭においてはこのような自力の信そのものをも賭けるのである。疑も信もすべて賭けたところに本当の賭があるのである。賭けてしまった後は、救われるか救われないか、勝つか、負けるか、いくら論じても無駄である、〈念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。〉ということになるであろう。〈よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細〉はないにちがいない。しかしこの信は今までの信とは質的に違ったものであることを知らねばならない。ここで信ずるとはかけることにほかならない。」
東国から命がけで今日にいる親鸞の元に〈ひとへに往生極楽のみちを 問ひきかんがためなり。〉とやってきた弟子たちに、親鸞は〈しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくおぼしめして おはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししから ば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。〉と突き放すように答えた。『歎異抄』第二条における�狄二造凌�仰告白�瓩凌�である。〈親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。〉と続けるのである。
では、親鸞の信仰告白とは何だったのだろうか。星野元豊師は�狹劼録�である。�瓩箸いΑ��狄�じようとしながらもその信が理性的人間の信であるが故に、そこには疑念がある、相対的世界においては心は必ず疑を含んでいる。信じようと努力すればするほど疑の心も強まるのである。いま賭においてはこのような自力の信そのものをも賭けるのである。疑も信もすべて賭けたところに本当の賭があるのである。�瓩判颪�。いかにしても�犁真喚瓩箸いδ貎爾き犲�力�瓩砲�らめとられたわたしたち人間が最後に行なえうる手段はまさしく�狹劼箸い�信�瓩靴�ないのだと星野元豊師は語る。親鸞の信仰告白とはまさしく�狹劼箸い�信�瓩覆里任△襦�
親鸞が東国から命がけでやって来た弟子たちに告白した信仰とは〈念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。〉であった。念仏が本当に浄土に往生することのできる信なのか否か、自分にはわからないということであった。そこには親鸞の自力を否定しようとすればするだけ、自力の努力という自己の姿しか見えない今日局的な自己矛盾という自暴自棄に陥ってしまうしかない自分の無力感だけであった。それだけ二十願から十八願への転入の壁は高く厚いものであった。そこにはもはや絶望しかなかったのである。そんな親鸞に一筋の光となったのが�爐茲�人の仰せ�瓩任△辰拭�〈親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。〉とは、まさしく親鸞の体験に基づく実存的信仰告白にほかなかったのである。

◇�犲�らの信仰と学問の問題��
「信ずるか信じないかを自分で計う必要はない、ただただ自己の全体をそのままに弥陀にまかしてたのである。自己を投げ出したそこにはただ弥陀があるのみである。自己肯定の努力、自己否定の努力の根底に横たわっている自己肯定的根本主我性とそれ自身を投げ出したのである。賭とはこの根本的自己肯定的我性を弥陀にまかすことにほかならない。賭の信とは根本的主我性の転回である。主我性を主他性に転ずることである。従って賭の信は根本的主我性の上に成立している信とはその世界を異にしている絶対的信である。それは言うならば疑とか信とかいうことの消え失せた信である。疑う私、信ずる私を投げ出した信である。かつてシュライエルマッハーがかの「絶対的依属感情(Das schliechthinilge Abhängigkeitsgefühi)をもって相対的世界にある部分的な自由感情や依属感情の絶対否定された「先験的霊点」(Traunszendentalaler Nulpunkt)「無差別点」(Indifferenzpunkt)と表現したものもまたこのような境地を指したものであろう。」
星野元豊師の�犲�己を投げ出したそこにはただ弥陀があるのみである。自己肯定の努力、自己否定の努力の根底に横たわっている自己肯定的根本主我性とそれ自身を投げ出したのである。賭とはこの根本的自己肯定的我性を弥陀にまかすことにほかならない。賭の信とは根本的主我性の転回である。主我性を主他性に転ずることである。�瓩箸いο製劼蓮△泙気靴�親鸞の信仰告白を論理的に開明したものにほかならない。それは、�爐�つてシュライエルマッハーがかの「絶対的依属感情をもって相対的世界にある部分的な自由感情や依属感情の絶対否定された「先験的霊点」「無差別点」と表現したものもまたこのような境地を指したものであろう。�瓩箸いΔ箸海蹐法∪祥里僚ゞ掬�学者としての�牾慳篥�側面�瓩鬚澆擦討い襪里任△襦�
それでは�狹劼凌��瓩箸いΨ舛婆世蕕�になってくるわたしたち凡夫とはいかなる在り様をしているのであろうか。わたしが注目したのは次の一節である。
「だかふりかえって考えるとき、この賭けるということの何と厚顔無知であることか。いや、それよりもその賭け方の何と醜悪下劣であることか。賭けるのと賭けないとのどちらが損かをはかってみて、賭けても何も失いはしない、賭けて当たれば丸もうけだとというこの根性のあさましさ。それを愧ぢることもなく、はずかしいとも思わず、なおも疑ったまま、たすけるというから救うてくれと投げ出した自分の姿こそ貪瞋邪偽奸詐百端という形容もただならぬ悪性そのものではないか。しかも蛇蝎のこの私がいまそのまま弥陀に生かされているのである。」
星野元豊師はこの一節のなかで�犲懃�のこの私がいまそのまま弥陀に生かされている�瓩噺譴辰討い襦�わたしには�爐海了筬瓩箸いκ源�に星野元豊師の浄土真宗の一人の僧侶としての�狄�仰的側面�瓩鮓�出すのである。星野元豊師は、�犖�顔無知�甅狃弘�下劣�甅瑕唐喙抖欣〆症潅爾箸いΨ鼠討發燭世覆蕕粍�性�瓩箸いΩ斥佞鯱△佑蕕譴討い襦�それは賭の信でしか阿弥陀如来のに身を任すことのできない�犧甍�深重・煩悩熾盛の衆生�瓩虜澆衢佑鮓譴辰討い襪里任△襪�、しかしそのような�犧甍�深重・煩悩熾盛の衆生�瓩琉貎佑箸靴得洩邯桔�師も含まれる。まさしくそのような告白が�爐海了筬瓩箸いΩ斥佞帽�められているように思われるのである。

◇再び〈浄土〉の存在異意義
星野元豊師の�狄�仰告白�瓩任△覘犲懃�のこの私がいまそのまま弥陀に生かされている�瓩箸いΩ斥佞蓮↓犧甍�深重・煩悩熾盛の衆生�瓩琉貎佑任△覘爐海了筬瓩��爐い泙里修里泙洵瓩豊猝鐶砲棒犬�されている�瓩箸いΑ�つまり�爐海了筬瓩凌箸�如何に罪悪深重・煩悩熾盛であろうとも、弥陀の�狎歇萇埃里陵�益�瓩砲△困�っているという。この�狎歇萇埃里陵�益�瓩魄ぬ鐶貿〕茲領�場から見れば、〈十方衆生〉が〈欲生我国〉という願いを捨てない、いや、捨てさせないということであろう。星野元豊師は、その〈欲生我国〉という阿弥陀如来の立場からもう一度、�狆�土�瓩梁減澎婬舛鮗,里茲Δ砲泙箸瓩蕕譴襪里任△襦�
「三願はともに〈十方衆生〉をその救済の対象としているが、それと同時に、三願が共通なことは〈欲生我国〉ということである。乃ち弥陀の浄土に生ずるということが三願がひとしく目ざしたところである。〈欲生我国〉は三願を貫いて変わらざるライトモチーフである。この〈欲生我国〉ということが十方衆生をしてこの三願にひきつけている根本なのである。浄土がイデア的に存在することによって常に凡夫の欲生心をかりたて、またか彼岸的存在である人間存在の根本矛盾を照顧せしめ、かくすることによって欲生心を為楽願生たらしめないで、自己存在の絶対矛盾を超えんとする絶対的挙体的な真摯な欲生たらしめるのである。この欲生はあくまで凡夫の欲生として三願ともに変るところはない。欲生が凡夫の欲生でなくしてどうして凡夫がそのまま救われて往生することができよう。すでにのべてきたように、浄土はあくまでも凡夫の欲生の対象であり、欲生はあくまで凡夫の煩悩的欲生である。」
星野元豊師は、�燹厖濱顕羚顱咾六梓蠅魎咾い栃僂錣蕕兇襯薀ぅ肇皀繊璽佞任△襦�この〈欲生我国〉ということが十方衆生をしてこの三願にひきつけている根本なのである。�瓩判颪い討い襦�〈欲生我国〉とは十九願における自己肯定に絶望し、二十願の自己否定にも絶望してもなお、絶望すればするほど、深く�狆�土往生�瓩悗了廚い魘�くするわたしたち�犧甍�深重・煩悩熾盛の衆生�瓩虜澆衢佑鮓譴辰討い襦�しかしそのような絶望を深めるのも、〈欲生我国〉において、つまり阿弥陀如来の大悲においてなのである。このように〈欲生我国〉は阿弥陀如来(神)と人間との関係を成り立たせる�狆貊雖瓩箸靴憧�に開かれているのである。
ただ、その阿弥陀如来の〈欲生我国〉という願いに、呼び声にわたしたち�犧甍�深重・煩悩熾盛の衆生�瓩�応えられるのは、ただ�狹劼箸靴討凌��瓩任靴�なく、そのことを深く自覚すればするほど、わたしたちの�犧甍�深重・煩悩熾盛の衆生�瓩任△襪海函⊇弘�下劣であること、貪瞋邪偽奸詐百端という形容もただならぬ悪性そのものを思い知らされるのである。

◇結びとして
わたしは、この星野元豊師の『浄土―存在と意義』で取り上げられた三願転入、とくに二十願から十八願への転入に、�狹劼箸靴討凌��瓩箸いΔ箸海蹐法∪洩邯桔�師のより深い人間存在の理解の在り方、さらにその人間存在を照らし出す浄土という存在意義への理解の在り方を読み取るのである。
そして弁証法神学の神と人間との間の絶対断絶における�犒觜臈性瓩鬚瓩阿襯�ール・バルトとエミル・プルンナーの論争に�爛丱襯反棲悗虜�本的な盲点�瓩鮓�出した星野元豊師の�狎祥里僚ゞ掬�学を専攻している一書生がその自らの信仰と学問の問題を自らの手と足とでもって拓り開こうと苦しんできた素直な披瀝�瓩任△蝓△修糧籖佑蓮峪笋論簑伉怯枦�なるものが現実に結びつく結合点をここでは狭く限定してまず親鸞の教に求めた。そして私はその結合点が親鸞にあっては〈浄土〉にあることを見出したのである。〈浄土〉の存在意義はまさにこの結合点の働きにある」のである。
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