mixiユーザー(id:47122285)

2019年09月11日08:48

245 view

「唯識三+頌」�◆並荼溥鵝法繊並莇辮鵝�

(六)(第五頌)〜世界を作り出している心〜末那識(その一)〜
(原文)
 次第二能変 是識名末那
 依彼転縁彼 思量為性相
(読み方)
 し・だい・に・のう・へん ぜ・しき・みょう・ま・な
 え・ひ・てん・ねん・ぴ し・りょう・い・しょう・そう
(訓読)
 次は第二能変なり。この識を末那と名く(なづく)。
 彼に依って転じて彼を縁ず。思量を性とも相とも為す。
(現代日本語訳)
  第一の能変(第一頌参照)は、阿頼耶識ですが、次は、第二の能変です。この識(心)の名称は、末那(まな)です。
 末那識は、彼(阿頼耶識)を依りどころとして出てきた転識であり、彼(阿頼耶識)を認識対象としています。そして、阿頼耶識を(不変的で実体のある自分の中核をなすものと誤解して、)一途に思い量る(はかる)ことが末那識の本質(性)であり、具体的なはたらき(相)です。


(七)(第六頌)〜世界を作り出している心〜末那識(その二)〜
(原文)
 四煩悩常倶 謂我癡我見
 并我慢我愛 及余触等倶
(読み方)
 し・ぼん・のう・じょう・く い・が・ち・が・けん
 びょう・が・まん・が・あい ぎゅう・よ・そく・とう・く
(訓読)
 四の煩悩と常に倶(とも)なり。謂く我癡と我見と
 并(なら)びに我慢と我愛となり。及び余(よ)の触等と倶なり。
(現代日本語訳)
 末那識は、常に四つの煩悩とともにあります。いわゆる、
「我癡」(すべてのことがら、とりわけ自分の本来の姿を知らないこと)、
「我見」(自分という存在を不変的で実体的なものと誤認すること)、
 並びに、
「我慢」(とにかく自負して、他人を侮ること)、
「我愛」(実体視した自我に愛着すること)、
とともにあります。そして、それら四つの煩悩に関連するその余の煩悩(これを随煩悩といいます)と触(第三頌参照)などの心のはたらきが付随してついてまわります。


(八)(第七頌)〜世界を作り出している心〜末那識(その三)〜
(原文)
 有覆無記摂 随所生所繋
 阿羅漢滅定 出世道無有
(読み方)
 う・ふく・む・き・しょう ずい・しょ・しょう・しょ・け
 あ・ら・かん・めつ・じょう しゅっ・せ・どう・む・う
(訓読)
 有覆無記に摂(おさ)む。生ずるところに随って(したがって)繋(け)せらる。
 阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。
(現代日本語訳)
 末那識の性質は、無記(第四頌参照)、すなわち、善でも悪でもなく中立ですが、有覆(第四頌参照)、すなわち、仏道を歩む上で障害となるもの(前述の四つの煩悩)の影響を受けます。また、末那識は、大本の阿頼耶識が生まれた所(世界)の状況に従って縛られます。
 もとより、こうした末那識のはたらきは、阿羅漢の境地に至れば完全になくなります。また、その境地に至らなくても我執を否定した無我の境地に至ったり(出世道)、また、その出世道において無心の極まった状態に至れば(滅定=滅尽定)、その状態が続いている間は、末那識のはたらきは停止します。


(九)(第八頌)〜世界を作り出している心〜六識(その一)〜
(原文)
 次第三能変 差別有六種
 了境為性相 善不善倶非
(読み方)
 し・だい・さん・のう・へん しゃ・べつ・う・ろく・しゅ
 りょう・きょう・い・しょう・そう ぜん・ぷ・ぜん・く・ひ
(訓読)
 次は第三の能変なり。差別なること六種有り。
 境を了するを性とも相ともなす。善と不善と倶非となり。
(現代日本語訳)
 次に第三の能変(第一頌参照)は、了別識(第二頌参照)です。そのはたらきの違いによって六種(六識、下記注釈参照)あります。
 それらは、それぞれ対象(境)とするものが異なり、それぞれの対象を認識(了知)することを本質(性)とし、それが六識それぞれの具体的ははたらき(相)となります。そして、六識は、場合によっては、善にも不善にも、あるいは、それらのどちらでもない無記にもなります。
(注釈)
六識=眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識


(十)(第九頌)〜世界を作り出している心〜六識(その二)〜
(原文)
 此心所遍行 別境善煩悩
 随煩悩不定 皆三受相応
(読み方)
 し・しん・じょ・へん・ぎょう べつ・きょう・ぜん・ぼん・のう
 ずい・ぼん・のう・ふ・じょう かい・さん・じゅ・そう・おう
(訓読)
 この心所は、遍行と、別境と善と煩悩と、
 随煩悩と不定となり。皆、三受と相応す。
(現代日本語訳)
 六識が、善にも不善にも、あるいは、それらのどちらでもない無記にもなるのは、六識に相応する心のはたらき(心所)が、次に示すように広範にわたるものであるからです。
 すなわち、その心のはたらきとは、「遍行」(ごく基本的な心のはたらき)
「別境」(特別な対象だけにはたらく心のはたらき)
「善」(仏の世界に順ずる心のはたらき)
「煩悩」(仏の世界に反する心のはたらき)
 「随煩悩」(煩悩に付随してはたらく心のはたらき)
「不定」(その他の心のはたらき)
のことです。このうち、「遍行」の「受」のはたらきは、対象を「苦」ととらえるもの(苦受)、対象を「楽」ととらえるもの(楽受)、及び、対象をそれらのどちらでもないものととらえるもの(捨受)の「三受」にわたります。そして、このことは、六識すべて(皆)に当てはまります。

��「第十頌)」〜「第十三頌」に続く
https://mixi.jp/view_diary.pl?guid=ON&id=1972932462&owner_id=47122285&via=list_diary_history

唯識説−概説に戻る
http://mixi.jp/view_diary.pl?guid=ON&id=1972930496&owner_id=47122285&via=list_diary_history
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する