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2019年07月14日14:36

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相模原障害者殺傷テロ事件を�狆祿下圓噺世錣譴訖佑燭舛梁Ν瓩�ら見る―辺見庸さんの新作小説『月』をめぐって

今朝、Eテレ『心の時代−宗教・人生 �犧澆覘瓩鬚瓩阿辰董戮鯱寝茲靴童�る。

わたしはときより、このEテレ『心の時代−宗教・人生』を録画しておくのであるが、今回は�犧澆覘瓩鬚瓩阿辰討箸いΕ織ぅ肇襪亮罎�れて録画していたのであるが、内容は、作家・辺見庸さんが相模原障害者殺傷テロ事件を題材にした新作小説『月』という作品を手かがりにして�犧澆覘瓩箸いΔ海箸砲弔い胴佑┐討澆茲Δ箸いΔ發里任△辰拭�

辺見庸さんは、講演中に脳梗塞で倒れ、今もその後遺症の治療にリハビリに通っておられるという。わたしは、まだ辺見庸さんの『月』という小説を読んでいない。番組のなかで辺見庸さんは何故相模原障害者殺傷テロ事件を�狆�説�瓩箸いΨ舛能颪い燭里�、その理由を次のように語っている。

�爐覆璽離鵐侫�クションではなく、小説『月』を書いたのか。今日、何というんですか、僕はお話したいことがあるとしたら、そのことだというふうに思うんです。小説乃至は詩ですね。ポエムですね、しかできないこと、として自由にやってみたかった。例えばですね、ノンフィクションであれ、新聞とかですね、テレビのニュースなんかでは、こういうことはできないと思うんですね。「死者をして語らしめる」というようなことはできないと思んですね。あるいは「語らないものを語らしめる、黙(もだ)すというか。沈黙するものをして語らしめる」ということは、ノンフィクションにはできないことなんだろうな、というふうに思んです。動物や、あるいは意識がないとされる草や木には、本当に意識はないのかどうか。あるいは意識がないとされる人間には、本当に意識がないのかどうか。外側から見るんじゃなくて、内側からみるということをするにはですね、小説という手段、詩という手段を使わなければいけない、というふうに思うんです。これは時空間の移動とか、自己規制しないで済むということがあると思うんです。みなさんもそう思いませんか。僕らの日常というのは、すべてが整然として時系列的に整理されて起きてくるわけでもないし、我々によって経験されているわけでもないというふうに思んです。我々の内面には、これは僕の言葉ですけれども、「内面の風景の不意の突然の立ち現れ」というのがある。考えもしなかった、それが人間というものの霊妙な所だと思んですけども、それを小説や詩では抑制しないことができる。新聞ではそれをやったら終わりですね。誰も新聞を読んでくれないわけです。 ��

しかし辺見庸さんが相模原障害者殺傷テロ事件を�狆�説�瓩能颪海Δ箸靴人�由はそれだけではないように思われてならない。辺見庸さんはこんなことも話している。

�� ある夏の未明にですね青年が重度障害者の頸(くび)をですね刃物で切って回る。これがですね、悪意からじゃなくて、むしろ善意と使命感からなされたということに、どうしても注目せざるを得ないものがある。僕としては内心を書き乱されるというんですか、ような思いをしたわけです。この異様さをどういうふうに名状できるか。報道では、例えばどんなに間違っても、「実はあの容疑者である青年と同じような負の定規のようなものを実はこの社会というものが共有しているんだよ、というようなことはいうわけにはいかない。じゃ、あの青年の背中を押したものはなんなのか、ということを徹底的に追及しようとはしない。全体としてこの社会というものが、あの青年を突き動かしたんではないか。それから「生産性」ということを言った人がいるけれども、「生産性」というような発想の中に、彼のような凶行に導いていくようなものはなかったのか、あったのか。��

人間存在の意義を容易に�狎源裟��瓩箸いΩ斥佞魄譴弔隆霖牢霆爐箸靴童�做そうとする、現代日本社会におけるナチス的・優生思想的な傾向に対する警告、いや、反発であったように思われてならない。

辺見庸さんは、この番組で�猴浸爿瓩箸いΩ斥佞鮖箸錣譴討い襦�

与死とは、「一定の判断基準を満たした者に、社会規律として死を与える」というものである。

�猴浸爐箸蝋餡箸�法律を通じて国民を死を与える。国家が死を与えられた国民は犯罪者である。世に不要な生命は国家が廃棄する。世の役に立たない人は不要である。優生社会と辺見はこれを断じる。この考え方を個人レベルで成し遂げようとしたのが、神奈川県のやまゆり学園の事件の犯人であるという。実行者は、重障がい者を重点的に殺害している。殺害行為の正当性を主張している。障がい者は社会に不要であるばかりか負担となっている。国に代わって不要な人間を廃棄する自分は、国家から称賛されると信じていた。元職員の犯人を精神鑑定して罪の存在を霧散させたり、警備の問題に封じ込めるのは問題の存在を転嫁し隠匿する結果になる。犯人は確信犯であである。塀を高くしたり鍵の機能を高めたりすることは、結果的に障がい者の隔離になる。昭和に戻ってしまう。��

障害者と言われる人たちは、もはや国家にとってお荷物でしかない�猝詰兌圻瓩覆里�もしれない。しかしある一定の状況にある自国民をそのように見做してしまう国家とは何か、辺見庸さんはこの問いかけわたしに問いかけているように思えた。

相模原障害者殺傷テロ事件の実行犯である植松聖容疑者は�爐△觧般心境瓩鬚發辰討△里茲Δ併椎Δ淵謄躬�件を起こしてしまった。その�犹般心境瓩箸麓�民党国会議員である杉田水脈が語った�狎源裟��瓩筏阿魄譴砲垢襪發里任△辰拭�つまり植松聖容疑者は�狎亀舛旅坩扠瓩箸靴討△料衞聾蕎祿下垰�傷テロ事件を起こしたのである。自分の行為は国家のためになり、国家も認めてくれる行為だと信じて行ったのである。とするならば、そのような植松聖容疑者を裁判を経て死刑にしてしまうわたしたちは、果たして植松聖容疑者が行った行為とどこがどのように異なっているのであろうか、実質は同じではないのかという問いかけを問われてくるのである。わたしたちも障害者と言われる人たちを殺傷した植松聖容疑者と同じだということになるのだ。

辺見庸さんが相模原障害者殺傷テロ事件を�狆�説�瓩箸い�仕法で書こうとしたのは、辺見庸さん自身が脳梗塞で障害者と言われる人たちの側の人になったからではないかと思えてならない。障害者と言われる人たちの側からあの相模原障害者殺傷テロ事件を見てみるということも必要であり、そこには新聞などで報道されている事柄゛はなく、�牾安Δ�ら見るんじゃなくて、内側からみるということ�瓩�必要になってくるのである。障害者と言われる人たちのことは障害者と言われる人たちでないとわからないことが多々あるのである。そういう意味からも今回の参議院選挙に「れいわ新撰組」から木村英子氏が立候補されたことは意味のあることだと思われる。

相模原障害者殺傷テロ事件を�狆祿下圓噺世錣譴訖佑燭舛梁Ν瓩�ら見る。そんなこともしてみるときに来ている。今朝のEテレ『心の時代−宗教・人生 �犧澆覘瓩鬚瓩阿辰董戮鮓�てそんなことを思ったのである。


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