連日、関学と日大のアメフトでの悪質反側問題が報道されているが、よく考えてみると、わたしの父方の伯父とは母方の伯父はそれぞれ、日本大学、関西学院大学の卒業生なのである。
二人の伯父は、もうとっくの昔に亡くなっているが、父方の伯父が特攻隊から生き残って帰ってきた後、日本大学に進学し、大林組の現場監督を定年退職をするまで勤めていた。
関西学院大学は、母のすぐ上の兄、わたしにとっては伯父が卒業している。その伯父は弁護士を目指して関学の法学部を卒業し、弁護士を目指して勉強中に、若くして亡くなっている。その伯父は、わたしが生まれたとき、わたしの将来を気遣ってくれていたという話をよく母から聞いていた。
そのような縁があって、わたしはこの問題のことが気になるのだろうか。それとも違って、わたしは大谷大学の学生時代から�狢膤惻更塢��瓩箸いΩ⇔狼ヾ悗瞭睨襪鮹里辰討い燭�らかも知れない。
わたしが大谷大学大学院に籍を置いていた頃、一時大谷大学に学長不在という時期があった。大谷大学の学長選挙に絡む�猊�落差別問題�瓩鯊臙�大学は引き起こしたのである。
そこには大谷大学における�牴�革派�瓩鉢猜歇蘿畢瓩梁侘�構造があった。当時の大谷大学の構内を大きく建て替えようという動きを�牴�革派�瓩�推し進めていた。それは単に建物だけではなく、大学の制度そのものを大きく変えようとするものであった。その一つが研究室の統廃合であった。
以前は文学部各学科毎にあった研究室を4つの研究室に統合するとともに、それまでの助手、副手という制度をなくし、二年間という有限的な特別研究員制度を導入するというものであり、しかもその特別研修員は、大谷大学出身に限定しないというものであった。
そのような改革に抵抗を感じた一部が部落問題や障害者差別問題を引き合いに出しながら、いわゆる当時の改革派の本命候補を打ち破って学長の座に就き、それとともに�猜歇蘿畢瓩龍軌�たちが大学の執行部を構成するに至った。しかし学内では学生が中心に教員、職員を巻き込んだ大学集会を連日開き、ついにはそのような学長選挙で学長となった教授をわずか一年で辞任に追い込んだ。そのとき、わたしもいろいろと過激な意見を述べ、障害者の親を自認するある教授と激しいバトルを繰り広げた。
その時の思いが込み上げてきて、今の日本大学の対応に、大谷大学�猜歇蘿畢畆更塢瑤梁弍�とダブって見えてきたからかも知れない。もちろんもう30年ほど昔の話で、学生の意識も大きく変わっている。しかし学生たちには、もっと�狹�事者意識�瓩鮖�ってもらいたいと思うのである。
�犧�の若者は・・・・・・・・・��
というセリフを口にする年代になってしまったのかと、少しおかしく思えるのであるが。
ログインしてコメントを確認・投稿する