日本にとっての第零次グローバリズム(大航海時代)は、
江戸幕府の鎖国政策(1639年の南蛮貿易終焉)
により一旦は終わりました。
その200年後、1853年。
捕鯨船の基地、及び石炭の供給を求めて、
蒸気外輪軍艦 サスケハナ号を旗艦とした
ペリー艦隊が来航し、日本は再び
グローバリズムにビルトインされることになります。
イギリス金本位制から始まった当時の
「第一次」グローバリズムは、別名、帝国主義と呼ばれます。
帝国主義とは、相手国の「住民」から主権を奪い、
あるいは主権を与えず、所得を継続的に吸収する
仕組みを構築することを意味します。
相手国の「住民」の主権を奪い取る手段は、
何も軍事力の行使には限りません。
「条約」でも構わないのです。
もちろん、相手国に不利な条約を結ばせるためには、
軍事力が背景に必要です。
時には阿片戦争のように、
軍事力が行使されるケースもありました。
日本の場合、黒船の軍事力をひけらかす
アメリカとの間に、日米和親条約が締結されます。
そして「不平等条約」として有名な
日米修好通商条約が、1858年に締結されました。
日米修好通商条約締結の際に、
日本国内で使われている金貨(小判)、銀貨と、
当時のグローバル通貨であった
メキシコドル(銀貨)との為替レートが決定されました。
日本の小判に含まれている金(きん)の重さは、
メキシコドルの銀四枚分(4ドル分)と同じ価値でした。
というわけで、小判1枚=4メキシコドル
という為替レートが定められました。
問題は、当時の日本の銀貨、
すなわち天保一分銀の為替レートです。
天保一分銀は、銀の含有率が低かったのです。
とはいえ、「一分銀」の刻印が押されている以上、
含有される銀の重さとは無関係に、
日本国内で「小判一枚=4x天保一分銀」の
交換レートで通用していました。
そもそも、おカネとは本来的には
金銀の重さとは無関係である
「債務と債権の記録」であるため、
別にそれで不都合はなかったのです。
というわけで、江戸幕府は、
「小判一枚が4天保一分銀で、
同時に小判一枚が4メキシコドルである以上、
天保一分銀=1メキシコドルにするべきだ」
と、主張しました。
それに対し、日米修好通商条約を
交渉したアメリカ人のハリスは、
「天保一分銀に含まれる銀は8.62グラムで、
1メキシコドル銀貨はの銀は26.73グラム。
従って1ドル銀貨の約1/3の量目である
一分銀3枚を持って1ドルに換えるべき。
実質価値に満たない名目貨幣としての
銀貨は国際的には通用しない」
と、金属主義丸出しで「1メキシコドル=3天保一分銀」
の為替レートを主張します。
江戸幕府側は、
「天保一部銀は極印により通用する
定位貨幣であるため、金(小判)価格を
元に天保一分銀=1メキシコドルである」
と、表見主義に基づき、
1メキシコドル=1天保一分銀の為替レートを
主張したのですが、結局は押し切られ、
「1メキシコドル=3天保一分銀」にされてしまいました。
結果、何が起きたのか。
国内と国外の為替レートに
乖離が生じてしまった結果、例えば、
「4メキシコドルを日本に持ち込み、
12天保一分銀に両替する。
日本国内で12天保一分銀を3小判に交換。
3小判を外国に輸出すると、12メキシコドルになる」
という「儲け話」が成立してしまい、
外国人がメキシコドルを日本に持ち込み、
天保一分銀経由で金(小判)に両替する
ケースが続出しました。
結果、日本から金が大流出。
日本国(江戸幕府)の「定位貨幣」という主張は、
おカネの本来的な定義から言っても正当でした。
とはいえ、当時の「グローバリズム」の世界では、
それは通らなかったのです。
結果的に、歪んだ為替レートを強いられ、
日本国からの金流出を招いてしまいました。
グローバリズムとおカネ。
この種の概念が、我が国の国益を
毀損していっているのは、
別に、現代に始まった話ではないのです。
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