悪口やグチを言わなければ生きられないときも、あるのでしょうね。
たとえ相手がネコであってもいいのだと思います。私たち高等動物一般(ヒト種含む)はどんなものにでも同類の姿を投影して「みなし」によって生きられるのですから。
いいお話でした。
http://image.itmedia.co.jp/l/im/nl/articles/1702/26/l_miya_170226ohukurokoneko01.jpg
(超耳)
ペットは「愛されるために家族になる」のではありません。愛の受容体はひとつの役割ですが全部ではありません。愛というのは、いささか以上に小さい表現です。
私たちが完全ではないので、補うために呼ばれて働くのだと私は思います。
そして完全な人なんてたぶんいないんですから、動物は誰にとっても役立つ可能性があるんだと思います。飼わないまでも道端で、動物園で、水族館で、液晶画面で視界に入れるだけでも、働いてくれると感じます。
子猫のミイは美談で終わったようです。けれども美談でなければならないということはありません。子猫はヒトではないという要素を持っていることが大事です。頭のどこかが壊れかけている人は、相手がヒトであれなんであれ傷つけてしまうかもしれません。動物だから無意味に傷つけていいということはないけれども、ヒトを傷つけるくらいなら、動物がそこにいてくれるほうがいい。
上記の人は子猫を生かしましたね。
生かすことができず、頭のどこかが壊れてしまった人によって残酷な結末になった動物もたぶん世界にはたくさんいると思います。
そのことを覚悟して、動物には悪いことをしているという自覚をもって、ためらわずに背負って、弱い人のために動物に働いてもらうこと、考えてもいいと思います。
動物を人のように扱うこともまた、私たちの誰もが苦もなくできること。
言葉がわからない動物はグチも平気です。悪口を言いふらしもしません。聞いてくれるなら動物だっていいんですよね。ちょっとおもしろい私たちなんですけれども。
誰かの世話をして「あー、めんどうだ、やれやれ」なんて言う機会も、あったらいいんだと思います。一方的に世話をされて同情されてという関係の中で、ニンゲンは健康な心を維持できないのです。
関係性の中でしかニンゲンではない、働きを期待されなければ保たれない私たちです。
たとえ壊れかけていてもずっとそうなんでしょうね。
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