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2017年01月16日18:25

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八木雄二著『スコトゥスの存在理解』を読んで―とても大雑把な理解ではあるが

中世哲学における根本問題とは、絶対者である神を被造物にして相対者に過ぎないわたしたち人間がいかに認識し、その神の存在を論じることが�犁�されるのか�瓩箸いΔ海箸世辰拭�つまり中世哲学においては、神の存在とその神の存在を認識することとは�狷碓讚瓩里海箸箸靴届世犬蕕譴討�た。

スコトゥスが説いた「存在の一犠牲」とは、まさしく神の存在とその神の存在を論じることは�狷碓譴里海鉢瓩任△襪箸いΔ海箸粒稜Г世辰拭�しかし当時の中世哲学において問題とされたのは、神の存在と被造物である人間の存在は�狷碓讚瓩�否かということであった。そのなかでスコトゥスが説いた「存在の一犠牲」とは、神の存在と人間の存在の間には�牋豕樟鍬瓩�成り立つと局介され、誤解され続けたのである。

その理由としては、スコトゥスの難解の思索、記述があるとともに、神の存在と人間の存在が�狷碓譴任△覘瓩範世犬覲愬匹鉢狷碓譴任呂覆覆き瓩範世犬覲愬匹�自分たちの都合のよいように解釈し続けたことにある。

トマス・アクィナスは、人間が神の存在を認識しうるためには、人間の知性が神の恩寵の光によって上昇させられる必要があると論じ、人間の神の認識は人間の神への信仰によるとした。つまり神を認識しうるのは神への信仰によるものだとした。それに対してスコトゥスは、神を認識しうる人間の知は神への信仰には無関係であるとした。つまり人間の知と信仰は別のものだとした。このことは一見すると、スコトゥスが�猝疑析静��瓩某祐屬涼寮�を論じかのように見られる。

しかしこのことを換言するならば、スコトゥスは人間の神への信仰は�犲�然的�瓩砲發弔發里世範世犬燭海箸砲發覆襦�そこにスコトゥスのキリスト者としての深い信仰が見て取れるように、わたしには思えたのである。

スコトゥスの哲学は神と人間の�狢減澂瓩��狷碓譴�否か�瓩箸いΔ海箸任呂覆�、神の存在とその存在を認識することが同一なのだと論じていたのだと、八木雄二著『スコトゥスの存在理解』を読んで、すごく大雑把であるが、そんなふうに理解することができた。そのなかで八木雄二氏は、スコトゥスの「存在の一犠牲」をトマス・アクィナスとの比較で論じることはできたが、ガンのヘンリクスとの比較研究はできなかったと語っておられる。

その意味からも加藤雅人著『ガンのヘンリクス』(創文社)を読むことがとても楽しみである。本日、ジュンク堂大阪本店に注文しておいた。


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