続けてメモします。
◆
つまり「3.9+5.1=」という筆算をやらせた結果「90」や「9.」と答えてしまう誤答が増えた結果として、これを防止しなくてはならない、そのような教育現場の切羽詰まった状況が背景にはあるようです。
(略)
では、多くの「親の世代」が子供だった時代にはなかった、このような「厳格性」が導入されているのは何故なのでしょうか? それは「日本文化独特の形式主義が暴走した」とか「管理教育が強化された」からではありません。
そうではなくて、そのような「生活実感からのストーリー性」を丁寧に追わないと、小数とか、足し算、掛け算の導入で「つまずく」子供が増えているからです。また、従来は「落ちこぼれ」になっていたそのような生徒に対して、教育現場が何とかしようという努力を強めた結果でもあります。
ということであれば、この措置は正しいのでしょうか?
とんでもありません。まず低学年では「入れ替えは禁止」として、手のひらを返したように高学年では「許可」するという矛盾や二度手間、あるいは多くの現場で起きているだろう「本音としては合っているが、ルールなので一点減点」という説明は、そもそも算数や数学の持っている「究極の合理性」というカルチャーに反します。そんな中で、「小学生にプログラミング教育を」などというのは笑止千万でしょう。
そして家庭における「憤慨する親の教育への不信感が子供のモチベーションを傷つける」という問題もあるでしょう。更には「塾ではいいが、学校ではダメ」といった「悪しき本音と建前の使い分け」を子供に強制することにもなります。
(略)
対策は一つしかないと思います。それは、公教育に本格的な「習熟度別」を導入するということです。算数・数学が得意な子供の知的好奇心や潜在能力を発揮させるのはもちろんですが、算数・数学が不得手である生徒を救済するためにも、この「習熟度別」は待ったなしだと言えます。もちろん、教育現場では既に導入されていますが、学年のカリキュラムからの逸脱は「先へ」も「後ろへ」も許されないという「横並びの進度」では、効果は半減します。
一つ気になるのは、どうして「習熟度別」に対しての「抵抗勢力」が存在するのかということです。その背景には、この社会は「何かにつけて人間に序列をつける社会」だという危機感があるのだと思います。良く言えばそうですが、要するに「この社会では人間は平等ではない」ということを、批判するにせよ受け入れるにせよ、それを前提に行動しているということがあるのだと思います。
仮にそうだとして、本当に平等を達成するには「不得意な子には納得できる指導と、しっかりした訓練の機会を」与えることが必要なのです。そこに踏み込むことなく、とりあえず表面的な現象として「横並び」にしておくことは、平等の達成でも何でもなく、学力格差の拡大に対して全くの無策であるだけと言えるのではないでしょうか。
「9.0は減点」という問題の背景には、「指導の困難化」が進む中で「横並び主義」の束縛から逃れられないという、日本の教育現場の苦しさがあるのだと思います。
◆
(超耳)
「とんでもありません」。
誤用です。でも気づいていらっしゃらない。この人は「やるせない」を丁寧に言うと「やるせありません」って言う人なのかな?
口語では「とんでもありません」は一般に使われます。だからやわらかい話題の記事ならば許される誤用の範囲でしょう。でも教育の記事でしょう? ニューズウィーク紙の記者への教育はどうなのよ? って言われても仕方がないですよ。
どうして「とんでものうございます」と書かないの?
>「指導の困難化」が進む中で「横並び主義」の束縛から逃れられないという、日本の教育現場の苦しさがあるのだと思います。
「指導の困難化」の根拠が薄い。
「横並び主義」のせいで習熟度別指導ができないという誤認。
んー。
机上の空論ですね。
昔の、農繁期には農家の子が何日も欠席するような時代(それほど昔ではありませんよ)と比べてどこが困難化しているというのでしょうか。一面、社会が教育に関心が強まったところだけが教育を難しくしているだけです。でもそれって全国民が教育に関心があるという状況ができている証拠です。いいことだし、避けられないことなのです。ここを目指してきたのです。
問題を適切に捉えている序盤から、どんどん主観で根拠の薄い理屈をねじ込んでいく。
マスコミによく見られる詭弁のスタイルです。このやり方をするとなんでも言えてしまいます。あ、国会でも民進党とかいうクズどもがよく使っていますよこれ。(心ある人も民進党にいることを知っていますが、選良はどんどんバカ個体を排除してもらわないと困るので党を名指しで言っておきます。民進党に多いです。あそこの党首がよくやっています)
ちなみに習熟度別なんか今すぐにでも導入できますよ。横並び主義なんぞ敵になりません。
予算があって教員と時間とをふんだんに用意できれば可能なのです。
小学生に英語を教えず運動会の準備なんぞに時間を割かず、身につけてから先のステップに進む補習を強制してやることができる状況でなら、できますよ。
私はそうしたほうがいいと思っています。そう言い続けています。できない子・できない大人というのは強制してもらわないと救われないんです。大人は愚行権をいくらでも行使なさっていいのですが子どもはそうではない。未来のために、強制されないと努力できない子をだって救ってやってほしいといつも願っています。
大人だって誰かが教えてやってほしいですよ。でもどんな人にも自由がある。愚かなまま生きて学ばぬまま死ぬ人生の選択権を保証されている。そのこと自体とても素晴らしく価値があることです。失ってはいけないことです。その素晴らしい果実を手放すことに比べたら、強制してもらえない大人が不幸のまま生きてそのまま死ぬだけ人生でも甘んじるしかない。嫌なことだけど!
>まず低学年では「入れ替えは禁止」として、手のひらを返したように高学年では「許可」するという矛盾や二度手間、あるいは多くの現場で起きているだろう「本音としては合っているが、ルールなので一点減点」という説明は、そもそも算数や数学の持っている「究極の合理性」というカルチャーに反します。そんな中で、「小学生にプログラミング教育を」などというのは笑止千万でしょう。
ここ、すごくいいですよね。
賛同いたします。
概ね良心的に書かれている記事だったとは思うのです。
でも「教育問題を語る意識の高いワタクシ」たちが軒並み陥るステロタイプから一歩も踏み出せていない。誰かが言った「問題」をあたかも自分でも考えて同じ結論に達したかのように言っている。ちゃんと考えてそうなったのなら文句はありません。むしろ推奨されること。でもちゃんと調べていないし考えていないではないですか。
横並び主義とかいうのがそんなに無敵を誇っている現象なの?
ウソおっしゃい。習熟度別クラスはとっくに現場で導入されていますよ。記者自身もそう書いているじゃないですか。
横並び主義とかいうのが敵になんかなっていないこと、明らかです。だのにステロタイプ依存は重症ですよね。習熟度別になっているけど横並び主義が元凶だ、と言えちゃうんだから。
こんな批判をされても教員も親もちっとも痛くありません。悪いのは日本人全体の横並び主義なんでしょう? じゃあどの個人も悪くない・みんなが悪いんじゃん!
そこがダメ記事でしたね。部分的にはいい点もあるのに残念。
もっともっと現場の教員たちの肝を冷やすような記事を書いてほしかったな!
記事には「2016年12月01日(木)17時30分」とありました。
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