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2016年04月10日14:11

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長谷正當著「トランス・デザンダンスとしての超越―武内義範の宗教哲学」より

武内義範師の宗教哲学を考えていくうえで大きな�狷刺賢瓩箸覆誅席犬�長谷正當先生の「トランス・デザンダンスとしての超越―武内義範の宗教哲学」(『心に映る無限―空のイメージュ化』法蔵館・所収)である。

�爛肇薀鵐后Ε妊競鵐瀬鵐広瓠糞嫩怯曄砲箸いΤ鞠阿砲弔い董�長谷正當先生は次のように説明されている。

「�爛肇薀鵐后Ε妊競鵐瀬鵐広瓩箸いΤ鞠阿呂發箸發肇献礇鵝Ε凜 璽襪�用いていたもので、武内はこの言葉を彼から借りている。しかし、武内はそれをジャン・ヴァールと同じ意味で使ってはいない。ジャン・ヴァールは、この概念で、芸術家に見られるような、実在を開示する深い経験の次元に降りてゆくことを指しているが、武内は、人間の有限性の自覚の底に深まりゆくことを指し示している。つまり有限性の自覚とその超克の問題という角度からこの概念を追究しているのである。」

そして上記に示した�爛肇薀鵐后Ε妊競鵐瀬鵐広瓩箸いΤ鞠阿鯢霪盖組六佞浪燭鮓譴蹐Δ箸気譴討い襪里�、�牾杵静��瓩房,里茲Δ墨世犬蕕譴討い襦�

「人間の有限性に目を向けることは、一般的に、超越から遠ざかることないし無視することであると考えられる。しかし、離れることで逆に成立する超越がある。それは、有限性を超え出たところではなく、有限性の自覚のただ中で開かれる超越である。その超越の特色を示すために、武内はそれをしばしば�狡怯柤静��疥�場と対比させている。自己の存在の底に開示される無限な開けに立脚するところに超越論的と言いうる立場があるならば、そのような無限な広がりを破って、その彼方からやってくる汝との遭遇に自己の真の在所を捉えるところに、武内はトランス・デザインダンスとしての超越の固有性を捉えるのである。そのような超越的汝との遭遇は有限性の自覚のうちでのみ開かれる。有限性の自覚が超越的汝との出会いを要求するのである。そのような超越を武内は宗教哲学・原始仏教・親鸞の思想などの分野において示そうとしている。」

わたしがこの長谷正當先生の論述において注目する点は、�猯イ譴襪海箸乃佞棒�立する超越がある。それは、有限性を超え出たところではなく、有限性の自覚のただ中で開かれる超越�瓩任△蝓↓猗猜�からやってくる汝との遭遇に自己の真の在所を捉えるところに、武内はトランス・デザインダンスとしての超越の固有性を捉える�瓩箸いε澄△気蕕豊爐修里茲Δ閉怯枦�汝との遭遇は有限性の自覚のうちでのみ開かれる。有限性の自覚が超越的汝との出会いを要求する�瓩箸いε世任△襦�

つまり長谷正當先生によれば、武内義範師が�爛肇薀鵐后Ε妊競ぅ鵐瀬鵐垢箸靴討猟怯朖瓩箸蓮⊃祐屬陵�限性の自覚のただ中においてはじめて�狒�遇する超越的汝�瓩討△襪箸いΔ海箸覆里任△襦�では、武内義範師にとって人間のよう厳正の自覚とは如何なる自覚なのか、そしてその自覚が何故超越的汝との遭遇を要求することになるのか。わたしは、『教行信証似の哲学』における武内義範師の次のように論じていることから考えて行きたい。

「第二十願の精神も決断においては、他力の念仏を選択してつもりであり、第十八願であると自負する。(中略)さて、自負していたいわゆる第十八願が、自己の深奥に自力の執心を発見すれば、自負していた第十八願はは自己を第二十願に貶してしまう。そして一度第二十願に堕ちることによってかえって逆に第十八願に浮かび上がる。そのことがどうして可能であるのかと問われれば、われわれはこの�犧瓩亮�覚から救済へ�瓩痢什�まですでにしばしば繰り返して説いた―道の、これが最後の最高の前提であり、そしてまた自覚の深奥のしかも了々として明らかな体験の事実でもあると言うよりほかない。第十八願と第二十願とは宗教的精神の本質的な自覚の両契機であるから、第十八願の精神はただ一度第二十願から転入して第十八願となってしまうのではなく、第十八願は絶えず第二十願を自己疎外によって成立せしめつつ、またさらに消滅契機として否定し、第十八願に転入せしめ続けねばならない。」

武内義範師は、三願転入における第十八願と第二十願との�狷端譴聞渋き瓩髻惷宜埒�証における教の概念』の中で次のように論じている。

「なんとなれば第二十願は第十八願成立の消滅契機としてのみ存在して、決してそれ自身存在するものではないからである。第二十願はそれ自身としては無であって、ただ第十八願に関連してのみ有となる。したがって第十八願と第十九願との関係は、有としての第二十願によって連続せしめられ、無としての第二十願によって断絶せしめられている。」

わたしは、これらの『教行信証の哲学』および『教行信証における教の概念』におけるから論述から武内義範師の�狄祐屬陵�限性の自覚�瓩�単にハイデッガーやキェルケゴールなどの実存哲学の�犹爐亮�覚�瓩任呂覆�、むしろ�犲�身の罪状の深さの自覚�瓩砲弔覆�っているように思われてならないのである。

鎌倉新仏教の開祖たちは�犹爐悗良坩足瓩鯊燭�語っているが、親鸞は一言も語らなかった。反して親鸞は自身を�犧甍�深重煩悩熾盛の衆生�瓩噺譴蠡海韻拭�その親鸞の精神が武内義範師にも受け継がれているように思われてならないのである。

長谷正當先生は、武内義範師が問題とした第十八願と第二十願の関連性を、武内義範師のお弟子の一人である、石田慶和氏の『信楽の論理』を含めて検討されているが、そのことについては、後日に稿を改めて書きたいと思う。ただ、結論を先取りするならば、わたしたち衆生が持つ�猗冉困亮�覚�瓩凌爾気虜垢砲△蝓∪佚跳掴造茲衂霪盖組六佞諒�が深く自覚していたということになるように思える。

武内義範師の�爛肇薀鵐后Ε妊競鵐瀬鵐広瓩箸蓮△錣燭靴燭舛亮�身の有限性を�犲�身の罪障の深さ�瓩箸靴銅�覚することにおいて、遭遇する超越的汝(我に対する汝、我に呼びかける意味における汝という意味での)であると、長谷正當先生は論じられているように考えるのである。
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