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2015年12月13日11:55

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親鸞は何故「死」を語らなかったのか、再論


先日、「親鸞は何故�犹爿瓩鮓譴蕕覆�ったのか」ということを少し日記に書いたが、そこには親鸞の�牋ぬ鐶貿〕茲凌�心�瓩�あったからだと考えている。

ただ親鸞の�牋ぬ鐶貿〕茲凌�心�瓩箸蓮⊃二造�阿弥陀如来を信じるというのではなく、阿弥陀如来が親鸞を信じるという形になる。つまり絶対者である阿弥陀如来、あるいはキリスト教的に言えば神がわたしたち衆生、あるいは人間を信じるということになる。重度真宗では「大信」と言い、西田幾多郎はこのような絶対者と相対者との関係を�犁嫗弍��瓩箸いι集修鬚靴討い襦�

わたしの好きな親鸞和讃(和讃とは、仏教における宗教的ポエムのこと)に次のような和讃がある。

「浄土真宗に帰すれども
 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて
 清浄の心もさらになし」
     (悲歎述懐和讃)

「浄土真宗の教えに帰依しても、我が身は�犁�仮不実�瓩謀匹譴騰狄深造凌喚瓩覆瓢�てようがない。いや何が真実なのかということさえ分からない。」
現代語訳すれば、こんな意味になるのであろうか。

人間は一度、信仰心に出会ったからと言って、この信仰心を持ち続けることはできない。信仰心に出逢った後も迷ったり信仰心を捨てられする。人間はそんなに強い存在ではない。人間の弱さはそこにある。親鸞はその弱さを�爐錣�身の事実�瓩箸靴銅�覚して行った人ではなかっただろうか。親鸞自身も師・法然の他力念仏の教えに出逢った後も迷ったことは自ら告白している。迷って再び師・法然の他力念仏の教えに出逢う。

『歎異抄』第一条「一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐる なりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわ ち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」

ここで言われる�狎歇萇埃里陵�益�瓩箸蓮�阿弥陀如来がわたしたち衆生を一度救えば二度と見捨てないということだ。わたしたちは阿弥陀如来を見捨てるかもしれない。しかし阿弥陀如来はわたしたち衆生を決して見捨てることはない。それはわたしたちがそのように確信したのではなく、阿弥陀如来がわたしたちをしてそのように確信せしめているのである。

西田幾多郎が『場所的論理と宗教的世界観』のなかで語っている「内在的超越のキリスト」もそのようなキリストなのであろう。西田幾多郎はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のなかの「大審問官物語に登場する�爐△燭�も影のごとく終始無言のキリスト�瓩髻崙盧濺�超越のキリスト」と解釈している。わたしが注目したいのは、キリストが大審問官の言葉に対して�狃�始無言�瓩任△辰燭海箸澄��狃�始無言�瓩箸いΔ海箸魯�リストはその大審問官の言葉のすべてを受け入れたということを意味しているのではないだろうか。

もしもそのように解釈することが許されるのならば、西田幾多郎の「内在的超越」とは、絶対者が相対者に対して超越した存在が内在するのではなく、むしろ相対者に内在し、相対者の�牾稔瓩鬟�ラの内側から破って超越していくということを意味しているのではないだろうか。そこに西田幾多郎が「私は襲来の宗教としては、超越的内在より内在的超越の方向にあると考えるものである。」と語らしめた所以があるように考えるのである。

親鸞は「死」について何も語らなかった。それは、親鸞は「死」について何の恐れも感じていなかったからであり、その理由は、自分が死ぬときは阿弥陀如来が�犇Δ砲い討�れる�瓩反�じられたからではないだろうか。

わたしの恩師・原野栄二先生が最晩年に、「死」について次のように語られたことを思い出す。

「死は嫌なものでも怖いものでも恐ろしいものでもなくなった。むしろとても懐かしく思えるものだ。」と。
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