好む、好まざるに関わらず、我々「人間」は様々なルール(規制)に縛られて生きています。
明文化された規制を決めるのは「政府」ですが、少なくとも国民主権国家の「人間」は、有権者として規制の決定プロセスに関与できます。
だからこそ、我々日本国に住む「人間」は「国民」なのです。
(というわけで、政治決定プロセスに関与できない中華人民共和国の「人間」について、「人民」と呼ぶのです。
古典派経済学、新古典派経済学と受け継がれてきた「主流派経済学」は、政府の規制を嫌悪します。
政府の規制が経済を「歪め」た結果、経済合理性以外の価値観をそぎ落とした経済人の効用の最大化、パレート最適が実現しないと主張しているのです。
現実に一切の規制が存在しない世界を考えてみましょう。
政府の規制が全て消滅した場合、残るのは「経済人による合理的な世界」でも何でもなく、殺伐としたサバンナです。
何しろ、規制がないとは「法律がない」と同じ意味になりますので、強者が弱者を虐げようと、憎悪に駆られて人を殺めようとも「構わない」という話になってしまいます。
上記のような極端な話ではなくても、例えば「交通ルールがない」社会を考えてみましょう。
車や人の流れを制御する信号機もなく「歩行者優先」といったルールもない場合、交通は混乱を極めることになります。
当然、交通事故も頻発します。
「そんな社会は、生きていくのが難儀だろうな・・・」と、思われたかも知れませんが、実は「中華人民共和国」では
右折(中国は右側通行なので、日本でいえば左折)時に「信号」は無関係で、さらに「歩行者優先」といったルールもありません。
また、直進の信号が赤であっても、右折はできるのです。
というわけで、自動車は容赦なく右折しようとアクセルを踏み込み、交差点を渡ろうとする歩行者と「サバイバル」を繰り広げています。
なぜ、中国で右折時のルールがないのかといえば、例えば「歩行者優先」といったルールを設定すると、歩行者が「横暴」になり、トラブルが頻発する事態になるためだそうです。
(とはいえ、せめて直進の信号が赤の場合は、右折禁止にするべきだと思いますが)
つまりは、その地に住む「人間」の民度が、社会の安定を決定づけるという話です。
中国の人民の「民度」は、間違いなく日本国民よりも低いです(社会の安定性を損ねるいう意味で)。
そうなると、規制というルールで縛ったところで、意味がないのです。
逆に言えば、中国人民は日本国民よりも「弱肉強食」な市場原理主義、新古典派経済学的な世界に馴染みやすいという話でもあるわけです。
1992年の南巡講話以降、中国経済が「グローバリズム」と連携し、急成長を遂げた理由の一つに、「中国人民の民度の低さ」があるようです
ログインしてコメントを確認・投稿する