http://9001.teacup.com/sfk/bbs/15961 (写真入り記事)
今日は、朝から夜まで、日曜日の礼拝説教の準備に費やしました。
説教の準備と実際に語る労力の比率は、「段取り八分の仕事二分」どころではありません。30分の説教の準備をするのに、少なくてもその10倍の5時間はかかります。
これが、たまに準備をして、たまに語れば良いならば、すぐに準備は終わりますが、毎週違う説教を準備して、語らなければなりません。
ある僧侶と説教について話しあったことがありますが、「毎週違う説教をします」と話したら驚いていました。「尊敬します!」と言われました。
牧師になった頃、「神様、私に説教を語る賜物を下さって感謝をいたします。しかし、説教を準備する賜物が足りないようです。どうぞ与えて下さい」と祈ったものです。
それくらい説教の準備に苦労して来ました。
大切にして来たことは、聖書の文脈と、神様に祈りながら、神様が教会員や聴衆に語りたいと思われている言葉を聞きながら、それをアウトラインにまとめ、文章化して来ました。
私は、決して作文が得意ではありませんでしたし、文章を書いても冗長で、人様に読んでもらえるようなものではなかったと思います。
今では、説教の準備をする苦労が、毎日ネットで投稿する文章の準備にも生かされていますし、毎日投稿するこの文章を準備する習慣が、説教準備にも役に立っています。
さらに発展して、クリスチャン・トゥディのコラムニストをお願いされていますし、その他の新聞や雑誌、機関紙の執筆を度々依頼されます。また、「出版しませんか?」という声も数回かかりましたが、こちらはまだ引き受けていません。
ネット上に投稿する文章を書く場合、時事を反映することが求められますが、極力、それを控えて、普遍的なメッセージや、私個人の出来事や感謝を書く事にしています。
時事に触れるなら、今日8月19日は、「バイクの日」です。丸一日説教の準備に費やすことになりそうなので、バイクに乗ることはないだろうなーと思っていました。
夕方になり、息子から、「パパ、髪の毛を切りに行きたい!」とメールが入りました。説教の準備が60%くらい終わった段階なので、どうしようかな?と思いましたが、少し煮詰まっているので、気分転換を兼ねて出かけました。もちろん、バイクに乗ってです。
バイクに乗っていて、昔と変わったことは、駐輪場が必要なことです。車の駐車場はどこにでもあるのに、バイクの駐輪場はまずありません。仕方なく、歩道にバイクを駐輪し、髪の毛を切り終わって戻ってくると、何と、駐車禁止のステッカーが貼られていました。
1000円カットで、安く髪の毛を切りに来たのに、駐車違反の反則金を支払ったら、随分高価なカット代になってしまいました。
おまけにバイクの日に、こんなことになったので、忘れることができませんね。
私がいつも行く床屋さんは、店を出してから16年になるそうです。1999年から床屋をしていることになりますが、「新宿の街は変わりましたか?」と聞きますと、2011年の東日本大震があってから、人がだいぶ減ったそうです。「10年後はどうなっているかわからないね」と言われました。
私が住む大久保の街もだいぶ変化しましたが、私自身も大きく変化しました。
まず、私の中での変化は、2002年にマックのパソコンを譲り受けて、パソコンをはじめたことです。その頃のインターネットはダイアルアップでした。インターネットを使用していると電話が使えませんでした。
「不便だなー」と思っていると、格安のADSLが登場し、ネット環境が整ったことで、また大きな変化がありました。ホームページを開設して、イエス・キリストの福音を多くの人に伝えるようになりました。
次に変わったのは、mixiというSNSが登場したことです。ホームページとSNSの違いは、全く知らなかった人たちで、かつ、mixiがなければ出会えなかった人たちとの輪が一気に広がりました。
また、ニコニコ動画やfacebookの登場も、ネットライフを大きく変えました。
ネットは、多くの人のライフスタイルを変えたのではないかと思います。
最近決まったオリンピックのロゴマークは、他のロゴマークのデザインを盗用したという疑惑が上がっています。
また、他の人が発表した論文をコピペして、盗用したという疑惑が世界中でたくさんあるそうです。
ネット環境が整ったことで、こういうインチキが横行するようになりました。
しかし、教会で語る説教は、昔も今も、そんなに大きくは変わっていません。語る題材は、聖書一冊だけですからね。
私を指導してくれた一人の神学校の教授は、「『学ぶ』は『学ねぶ』から来ています。習字を習い始めた時には、下にお手本の紙を敷いて、それを上からなぞることで上達します。説教も、有名な説教者の説教をマネて語ってごらんなさい!」と教えてくれました。
2〜3回、神学生を前にそれをやったことがあります。そうしたら、「カンちゃん、随分いい説教を語るね!感動したよ!」とほめられましたが、私の心は苦しくなりました。「次はどうしたらいいんだろう?」と思いました。
それ以来、いい説教じゃなくてもいいから、直接神様から聞いて、自分なりの説教をしようと心に決めました。
仮に、すごい説教者の説教を同じように語ったとしても、与えられている信仰が違うので、言葉としては語れても、自分自身から出たものではないので、心が納得しないし、本当の意味では恵まれません。
説教は、自分が体験して知っていることを、大胆に語ることです。説教を語ることで、人格と人格の触れ合いが起こり、お互いに成長していくのです。言葉だけよく語れても意味がありません。
また、説教だけ良いことを語ることはできないのです。毎日の生活の中で、神様とどのような関係を持ち、どのように生きているのか?が、そのまま説教になるのですから。
時代が変わって、価値観が変わったことで大きく変わったこともありますが、説教の準備や説教はほとんど変わっていません。
変わったのは、手書きで原稿を書いていたのが、ワードに打ち込むようになったとか、パワーポイントを使いながら語るようになったくらいのものです。
毎週1900年以上前に書かれた聖書から説教を語りますが、人間は、昔も今もそう大きく変わっていないんだなーと感じます。
同じような失敗を繰り返し、同じようなことで苦しんだり、泣いたり、喜んだり、笑ったりしています。
「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。」(伝道者の書3:15)
最後に、聖書は、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル18:8)と語ります。
イエス・キリストは変わらないお方ですが、私たちは、日々変化し、変わる存在です。今をスタートラインとし、イエス・キリストの姿に変えられることをゴールとしながら、毎日前進しています。
聖書が教える救いを神学用語で説明すると、��「義認」 ��「聖化」 ��「栄化」の3つの段階に分けられます。
まず「義認」は、イエス・キリストを救い主と信じた瞬間に、神によって義と認められます。この時点であまり人格が変わってない人もいます。
ある人は、クリスチャンになったのに、全然自分の生き方が変わらないので、苦しんだそうです。そして、クリスチャンらしく自分を取り繕うようになりました。しかし、このようなことをする必要はありません。むしろ、イエス様から、「偽善者よ!」と言われてしまうことでしょう。
次に、「聖化」です。クリスチャンになって、大きく変わった人もいますが、あまり変わってない人もいます。心配いりません。人が成長し、変わるためには時間がかかります。
今をスタートラインとし、イエス様と共にイエス様の姿に向けて一歩一歩変えて頂く歩みをしていきましょう。これは、神の御霊の力によって徐々になされます。
最後、「栄化」は、イエス・キリストの前に立った時、イエス様と本質的に同じ姿に変えられます。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3:18)
毎日、ちょっとずつ私たちは成長し、変わっていけば良いのです。そして、そのために、自分の髪の毛を引っ張って身長を伸ばすような努力ではなく、御霊なる主の働きによってなされるのですから、お任せしたらいいのです。
バイク(819)の日に歩道にバイクをとめたら駐車違反になりましたが、今度は同じ失敗をしません。どこにバイクを置いたらいいのかわかりませんが、成長するということは、同じ失敗を繰り返さないことです。
説教の準備に苦悶した一日でしたが、深く聖書を学び、深くイエス様と交わることができました。このことで、一歩前進したと思います。
昨日は、千葉県の22教会を回りましたが、今日は、夜まで一歩も外に出ませんでした。
どちらも素敵な一日でした。
みなさんはどんな一日でしたか?
お疲れ様でした。また明日お会いしましょう。
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