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2015年03月03日12:38

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原野栄二の先生のご自宅の玄関での�犧能蕕蛤埜紊了廚そ亅瓠讐源奸Ω玉遽鋲鸚萓犬涼太呼�に想う

本日、三月三日は恩師・原野栄二先生の誕生日である。

原野先生と初めてお会いしたのは、わたしが13歳のとき。
摂津市から大阪市東淀川区に引っ越しをしてきて、学習塾に通いたいと親に話すと、母親が、
「小松市場の近くに学習塾があるようだから、行ってみたら」
と言われて、�爐Δ鵝△錣�った�瓩噺世辰董△修粒惱�塾、�爛▲謄予劉瓩飽貎佑嚢圓辰拭�

そこは普通の家で�爛▲謄予劉瓩箸いξ�て札と�燹惘澄挌�行所�瓩箸いξ�て札がかかっていた。
「すいません」
と玄関に入ると、奥からジーパンをはいたお爺さんが出てきた。その人が26年間お世話になる原野栄二先生であった。
「何か用事ですか」と聞かれたので、
「この塾に入りたいのですが」と答えると、
「きみはどこの学校に通っているの?」と聞かれたので、
「東淀中学校です」
と答えると、
「○○君の友達ですか?」
「いえ、ぼくは転校してきたばかりなので・・・・・・・」
というような対話があったと思われる。
「じゃあ、入塾してください」
と言われ、そのあとでもう一度、母親と一緒にその学習塾・アテネ塾に入塾することになった。

原野先生にとってわたしの第一印象はかなり�犇辰��瓩鮖�ったという。まずは身体障害者であったこと、しかも一人で入塾に来たことであった。本来、入塾の際は、親同伴というのが普通なのに、おまえは一人でやってきた、�狎┐き瓩隼廚辰討い燭世韻燭茲Δ任△襦�

塾の学習方法は、原野先生が何かを教えるというのではなく、塾にある参考書と問題集を自分で解いて、わからないところを先生に聞くというものだった。そのアテネ塾の評判は�狹�てにならないアテネ塾�瓩箸いΔ發里世辰拭�そのことは周囲に�狄奮惱劉瓩�乱立し始めて、多くの塾生からそのような塾に移っていったが、わたしにはそのアテネ塾が相に合っていた。そして塾での最後に漢字ドリルをやらされて、間違った感じを10個ずつ欠かさせて帰るというものであった。

わたしは、長い間、原野先生はどこかの中学校の校長先生だった人だと思い込んでいた。その思い込みには根拠は一切なかったのだが、何かそんな気がしていた。しかし原野先生の�狎蟻劉瓩�わかったのは、わたしが大谷大学に入学するときであった。

原野先生は東京帝国大学文学部美学で大西克礼に学び、卒業後、武者小路実篤の「新しい村」に参加するが実篤の奥さんと人間関係上の問題により「新しい村」を離れ、京都帝国大学大学院に籍を置きながら、下村寅太郎先生の推薦で弘文堂の編集長となり、「西哲叢書」「教養文庫」「アテネ文庫」等を刊行していかれたという。そして西田幾多郎、田辺元をはじめとする多くの哲学者、文学者、島崎藤村、、志賀直哉、谷崎潤一郎、川端康成、井上靖、司馬遼太郎という作家、吉野秀雄、伊藤静雄、青木敬麿等の詩人、歌人等、また湯川秀樹等の科学者等とも交流を持っていたという。

�爛▲謄予劉瓩箸い�塾名を一度、原野先生にお聞きしたことがあった。その時、先生は「アテネがあらゆる学問の発祥の地だからだ」と答えてくれたように記憶しているが、その思いが「アテネ文庫」という名前の由来かもしれないと思った。

原野先生の葬儀が終わって、息子さんに「家で少し休んでいったら」と声をかけられて、先生の自宅の玄関を開けた時、家の中から先生が手で来られるような思いがして、通夜からずっと自分の中で抑えてきた感情、悲しみともさびしさともつかない感情がこみあげてきて、「いえ、今日はここで失礼します。なんたか家の中から先生が出てきてくれるような気がして仕方がないので」と言って、その時は失礼したことを覚えている。

原野先生と初めてお会いした場所も、先生のご自宅の玄関だったと思い出した。�犧能蕕蛤埜絖瓩�同じところのように思えて仕方がないのである。
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