名古屋港にあるごみの廃棄所を見たことがある。
東海地方で有名な食品会社がコンビ二に卸した弁当を廃棄する場所だ。
その会社の従業員が2トントラックで毎日新しい弁当をコンビニに運び、
売れ残った弁当を回収してそこに捨てるのだ。
同様のことが日本全国で行われているのだろうと想像すると、
非常にやりきれない思いだった。
私は発展途上国で長い間生活した。
だから、まだ十分食べられる弁当が捨てられる現場を見てしまうと怒りさえ覚える。
おいしい日本の米が捨てられることと、
発展途上国では多くの人たちが家畜のえさの様な米を食べていることとを対比して考えてしまうのだ。
資本主義とは矛盾を生産することだといえるだろう。
何も食品だけに留まらない。
家電製品なんかほんの少し壊れただけでも廃棄されてしまう。
修理されて発展途上国で再び命を噴き返すこともあるが
ほとんどはごみとして処分され、
酷い場合は富士山に捨てられる。
日本の象徴である富士山に捨てるとは、一体どういう神経をしているのか理解できない。
富士山を見たら「神が宿っている」と感じるのが日本人の感性だ。
神が宿る場所にごみを捨てる日本人は果たして日本人といえるのか?
在日韓国人の業者だけのすることではないだろう。
資本主義とは日本人の感性も捨てさせてしまうものなのか?
メーカーは消費者が製品を早く大量に消費し
新しい製品を買うことを要求する。
それが「日本のGDP拡大に欠かせないのだ」と主張する。
消費者の購買力に依存して資本主義を忠実に行っているだけで、
「GDP拡大のために努力して何が悪いのか?」と言いたいだろう。
あるいは「雇用を作って社会に貢献しているのだ」と言いたいのかも知れない。
けれどもGDPを永久に拡大し続けることは可能なのだろうか?
このまま資本主義の掟を守り続けていくことなどなどできるのか?
食べられるもの、そして使えるものを捨てさせて
新しいものを買わせることを繰り返し続けていくとどうなるのか、考えてみたことはないのか?
イスラム教徒は断食の義務を負わされている。
1年のうち1ヶ月間、日中の食事を取ることが禁止される。
かつては戦争や自然災害によって
食べ物が減り飢餓に見舞われることがしばしば起きた。
だからその準備として断食を行い危機に備えたのだ。
世界を恐慌が襲い、食べ物がなくなった時に一番慌てるのは日本人だろう。
日本人も断食をしないといけなくなる日がやって来る、と考えるのは杞憂だろうか?
「食品ロス」対策の現状
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=29&from=diary&id=2746244
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