mixiユーザー(id:18118933)

2012年04月14日18:21

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地元には縁の薄いカマだからかな?

原爆直下から生還した機関車 廃車後保存されるも放置される
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1986348&media_id=125

記事に添付された写真を見ればそれが如何にも1968(昭和43)年以降旧国鉄北海道総局苗穂工場で世話になったカマだと判る。
(切り欠きデフと公式側前端梁の大きな手すりは晩年の北海道型蒸機の典型的なスタイルで、例外はC11・C62・C581そして左右で形態の違ったC57201位かな?)

同機の関連サイト

http://c5557.kiteki.jp/html/D51483.htm

こちらにもはっきりと北海道型と判る特徴が写っている(前述のフロント部の他に密閉キャブ・旋回窓・北海道形タブレットキャッチャーなどが見て取れる)
が、裏を返せばこのカマが安曇野界隈にいたものでは無い事の証でもある。

長野局管内にはパシフィックやハドソンは皆無も同然で、C形はC11・C12・C56・C58クラスの丙線・簡易線向けの中小型機のみ。本線貨物は勿論、急行旅客列車でさえD形の独壇場だったから、D51それ自体は深い縁があったのだが…483号機は生涯信濃路には縁が無かったようだ。

1945(昭和20)年08月06日時点では、483号機は広島第一機関区所属だった由。被曝を生き延びたとのことだが…では同日08時15分の時点で483号機は何処にいたのか?

広電の650形は基本的に広島市内を出ないから全車被曝を免れなかったが、広一のD51は山陽本線や呉線、宇品線など広く走り回る。若しかしたら広島市内から遠く離れた場所にいて直接被曝はせずに済んだのではなかろうか?
もしも同機が広一区内や山陽本線海田市〜己斐(現西広島)間にいたら致命的な損傷を受けて修理不能と判断され廃車になっていたのでは?或いは案外損傷が軽微で済み、折からのカマ不足で復旧して貰えたのかな?

それとも…?
戦時中は何処の区所のカマも酷使されロクなメンテナンスも受けられず、交換すべき消耗部品の供給も滞っていたから時には不調のカマから部品を外して調子のよいカマを生かしたこともあったから、子細に見ると部品の刻印が別のカマのナンバーになっていたりする例が多々ある。それどころか車歴簿や関係書類も空襲その他で焼損し記録が失われた中どさくさ紛れにプレートが取り替えられてしまったカマすらある(今となっては推測の域を出ないが、機番とそのロロットにおける製造上の特徴や部品の仕様が不一致なカマは現役時代にも話題になった事がある。もっとも、書類上の不備を正すより現実の輸送需要への対処の方が優先されるのは当然であり、取り敢えずちゃんと走れるカマをわざわざ手間暇かけて弄る必然性もないためそのまま不問にされ今となっては神のみぞ知る項目になってしまった)。

483号機がそれに該当するか否か?は寡聞にして知らないが、あの時代を経験した車輛にはカマにせよ、旅客車・貨物車にせよ、大なり小なり奥深いドラマや人知れぬ過去がある。

史実は史実として敢えて其処には触れず思いをはせてみるのも一興かも知れないね(^^);

閑話休題
関連リンクとして貼ってあったこのネタ↓

http://www.news-postseven.com/archives/20120220_89181.html

C61が幻の蒸機?なんで?

そらま確かに、総勢33両で国鉄制式機としては少数派だしそもそも改造機だから制式機と呼んでいいのか否か?意見が分かれそうではあるが…

東北本線、奥羽本線、鹿児島本線、日豊本線、長崎本線などで旅客列車の先頭にも立ち時にはヘッドマークも凛々しく特急列車のエスコートもした湯所正しいカマである。「幻の…」の表記に違和感を感じるのは小生だけか?

さて、D51483。

経緯はどうあれ折角保存されたものの…その後の維持管理が蔑にされ?見るも無残な形になっているのは同機に限ったことでは無く各所で見られる。

何とか手を打って欲しいものだが先立つものが…不甲斐ない話ではある。
(一介の「鉄」ものにはどうしようも出来ない)
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