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哲学 Φιλοσοφιαコミュの 今度はマルクス主義に反対の立場をとったフランスの現代哲学者。  レイモン(レモン)・クロード・フェルディナン・アロン(Raymond Claude Ferdinand Aron、1905年3月14日 - 1983年10月17日)は、フランスの社会学者・哲学者・政治学者・ジャーナリストで、サルトルやボーヴォワール、それにメルロ=ポンティらの同級生・学友でした。しかし彼らの仲間というよりはライバル。  サルトルやボーヴォワールとは違って、マルクス主義に対しては否定する立場を貫きました。このあたりが日本の論壇やマスコミから無視された理由でしょう。  Wikipediaも参照してください。簡潔にその生涯と「反共」につていのみ描かれています。ここではネットにはないであろうアロンについて描いてゆきます。  彼はサルトルより一年早く1928年に教授資格試験にパスし、1931年からドイツにあって、ヒトラーの政権獲得までをつぶさに観察しています。彼は自国第一主義のフランス人らしくなく、ドイツの社会学や哲学を学びました。フランスの現代哲学者のなかで、マックス・ウェーバーを無視せずに読み、理解したのはアロンぐらいのものでしょう。これが彼の強みとなるのです。後にアロンはサルトルにフッサールの哲学を教えてもいます。  ごく若い頃にはマルクス主義に参りそうになったらしいですが、早くにここから離脱し、リベラリズムの立場を取りました。  第二次大戦中、アロンはド・ゴールの自由フランスの立場に立ち、ロンドンに亡命して、その言動や執筆活動などから政治評論家としても認められるようにました。この頃以前にはサルトルとは決別し始めました。  1953年、アロンはパリ大学の教授となりましたが、同時にジャーナリストであり、評論家であり、編集者であり、学者であり、いわばフランス流の大知識人でした。その思想体系はまとまったものとして鮮明にすることはできませんが、一言でいうならば、フランス流のボンサンス(良識)の立場に立ち、公正で偏ることがない知識人ということになります。今でいうならば、すぐれたコメンテーターといったところです。体系的な哲学を残さなかったことも日本から相手にされなかった二番目の理由です。  アロンはサルトルの雑誌『現代』誌上で華々しくサルトルと舌戦を繰り広げましたが、この頃すでに「フィガロ」紙の論説委員長を勤め、1976年には『レクスプレス』誌の論説委員長となり、多彩な発言をしています。  そのなかで当時、大いに読まれ、論議の中心となったのが、1955年の『知識人の阿片』です。ここでいう「阿片(あへん)」とは、一言にすれば、左翼思想、端的には共産主義を指しています。彼は当時のフランスの知識人がマルクス主義という阿片の中毒患者となっていたのを痛撃したのです。  フランスでは戦後すぐに国会議員の三分の一を占めていた共産党も、この頃にはすでに政権から追われれていました。しかし、知識人の世界ではまだ多くの人びとがマルクス主義に傾倒していただけに、アロンの著書への反響はすさまじいものとなりました。このことも日本では報じられていないようです。アロンには「右翼」という刻印が押されることになりました。  しかし、アロンはあくまで゛も自己の立場を守りながら、思想を展開してゆきました。その関心は形而上学的なものよりも、政治問題や外交問題、軍事問題などに関心が向けられてゆきました。彼がもっとも深い関心を寄せたのがインダストリアリズム(産業化.発達した産業社会)です。これもWikipediaにはない言葉。  これについては1966年の『インダストリアリズムに関する三つのテーゼ』があり、これが主著とも言えるでしょう。産業化が社会に及ぼす影響が彼のこだわりでした。哲学体系でもなければ、反体制的でもないのだから、日本のマスコミや知識人たちから無視されたのもむべなるかな。  インダストリアリズムの研究には近代思想史が欠かせないのだそうです。この思想的な手続きの面倒くささが、日本の知識人やマスコミがますます彼を遠ざけました。  アロンは著作『社会学的思考の主要な流れ』の中でドイツの社会学者・政治学者・経済学者のマックス・ウェーバーを"帝国主義者"と批判していますが、それとは裏腹にウェーバーからの深い影響は否定できません。いわば近親憎悪 ?  最後に長らく不和の関係にあったサルトルとは、1979年にヴェトナム難民の救済のために、当時のフランス大統領ジスカール・デスタンに陳情を共にしたことで二人は協力しましたが、思想的な立場はともに譲らず、フランスのヒューマニズムに立っての行動でしかありませんでした。

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 今度はマルクス主義に反対の立場をとったフランスの現代哲学者。

 レイモン(レモン)・クロード・フェルディナン・アロン(Raymond Claude Ferdinand Aron、1905年3月14日 - 1983年10月17日)は、フランスの社会学者・哲学者・政治学者・ジャーナリストで、サルトルやボーヴォワール、それにメルロ=ポンティらの同級生・学友でした。しかし彼らの仲間というよりはライバル。

 サルトルやボーヴォワールとは違って、マルクス主義に対しては否定する立場を貫きました。このあたりが日本の論壇やマスコミから無視された理由でしょう。

 Wikipediaも参照してください。簡潔にその生涯と「反共」につていのみ描かれています。ここではネットにはないであろうアロンについて描いてゆきます。
 彼はサルトルより一年早く1928年に教授資格試験にパスし、1931年からドイツにあって、ヒトラーの政権獲得までをつぶさに観察しています。彼は自国第一主義のフランス人らしくなく、ドイツの社会学や哲学を学びました。フランスの現代哲学者のなかで、マックス・ウェーバーを無視せずに読み、理解したのはアロンぐらいのものでしょう。これが彼の強みとなるのです。後にアロンはサルトルにフッサールの哲学を教えてもいます。

 ごく若い頃にはマルクス主義に参りそうになったらしいですが、早くにここから離脱し、リベラリズムの立場を取りました。
 第二次大戦中、アロンはド・ゴールの自由フランスの立場に立ち、ロンドンに亡命して、その言動や執筆活動などから政治評論家としても認められるようにました。この頃以前にはサルトルとは決別し始めました。

 1953年、アロンはパリ大学の教授となりましたが、同時にジャーナリストであり、評論家であり、編集者であり、学者であり、いわばフランス流の大知識人でした。その思想体系はまとまったものとして鮮明にすることはできませんが、一言でいうならば、フランス流のボンサンス(良識)の立場に立ち、公正で偏ることがない知識人ということになります。今でいうならば、すぐれたコメンテーターといったところです。体系的な哲学を残さなかったことも日本から相手にされなかった二番目の理由です。

 アロンはサルトルの雑誌『現代』誌上で華々しくサルトルと舌戦を繰り広げましたが、この頃すでに「フィガロ」紙の論説委員長を勤め、1976年には『レクスプレス』誌の論説委員長となり、多彩な発言をしています。
 そのなかで当時、大いに読まれ、論議の中心となったのが、1955年の『知識人の阿片』です。ここでいう「阿片(あへん)」とは、一言にすれば、左翼思想、端的には共産主義を指しています。彼は当時のフランスの知識人がマルクス主義という阿片の中毒患者となっていたのを痛撃したのです。

 フランスでは戦後すぐに国会議員の三分の一を占めていた共産党も、この頃にはすでに政権から追われれていました。しかし、知識人の世界ではまだ多くの人びとがマルクス主義に傾倒していただけに、アロンの著書への反響はすさまじいものとなりました。このことも日本では報じられていないようです。アロンには「右翼」という刻印が押されることになりました。

 しかし、アロンはあくまで゛も自己の立場を守りながら、思想を展開してゆきました。その関心は形而上学的なものよりも、政治問題や外交問題、軍事問題などに関心が向けられてゆきました。彼がもっとも深い関心を寄せたのがインダストリアリズム(産業化.発達した産業社会)です。これもWikipediaにはない言葉。

 これについては1966年の『インダストリアリズムに関する三つのテーゼ』があり、これが主著とも言えるでしょう。産業化が社会に及ぼす影響が彼のこだわりでした。哲学体系でもなければ、反体制的でもないのだから、日本のマスコミや知識人たちから無視されたのもむべなるかな。

 インダストリアリズムの研究には近代思想史が欠かせないのだそうです。この思想的な手続きの面倒くささが、日本の知識人やマスコミがますます彼を遠ざけました。

 アロンは著作『社会学的思考の主要な流れ』の中でドイツの社会学者・政治学者・経済学者のマックス・ウェーバーを"帝国主義者"と批判していますが、それとは裏腹にウェーバーからの深い影響は否定できません。いわば近親憎悪 ?

 最後に長らく不和の関係にあったサルトルとは、1979年にヴェトナム難民の救済のために、当時のフランス大統領ジスカール・デスタンに陳情を共にしたことで二人は協力しましたが、思想的な立場はともに譲らず、フランスのヒューマニズムに立っての行動でしかありませんでした。