mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

哲学 Φιλοσοφιαコミュの火木土は哲学・思想に関するものをメインコンテンツとしていますが、今日はあんまり知る人も多くないかもしれませんが、日本の水戸学者の藤田東湖(ふじたとうこ.1806―1855)。  東湖は江戸後期の水戸藩士でした。文化(ぶんか)3年3月16日藤田幽谷(ゆうこく)の次男として、水戸上町梅香(ばいこう)に生まれます。幼名武次郎、のち虎之介。諱(いみな)は彪(たけき)、字(あざな)は斌卿(ひんけい)、東湖はその号。  父の家塾青藍舎(せいらんしゃ)で儒学などを修め、江戸に出て剣を岡田十松(おかだじゅうまつ)に学びました。学問は一派に偏せず広く学び、朱子学にはこだわりませんでした。  1826年(文政9)父の死にあい、22歳で家督を継ぎ家禄(かろく)200石を受け、彰考館(しょうこうかん)編修となりました。徳川斉昭(とくがわなりあき)の藩主就任のときには、斉昭を擁立する改革派の先頭にたって活躍しました。  水戸の天保(てんぽう)の改革では終始斉昭の側近として改革を推進しました。  1840年(天保11)35歳で側近三役の一つ、側用人(そばようにん)の重職に抜擢(ばってき)され、やがて役料も加え500石を給せられます。  父が町家出であるのを思えば、破格の昇進です。  藩校弘道館(こうどうかん)の建設では、斉昭の意を受けてもっとも尽力しました。  建学の方針を示した『弘道館記』は、東湖が成文の中心で、その解説『弘道館記述義』は、会沢正志斎(あいざわせいしさい)の『新論』とともに、水戸学の教典とされ、東湖作の「正気歌」などとともに、幕末の尊攘(そんじょう)運動家に大きな影響を与えました。  1844年(弘化1)斉昭の失脚とともに東湖も幕命をもって罷免され、謹慎を命ぜられた。やがて斉昭が幕府の外交に参与するに至り、東湖も中央で活躍する機会に恵まれ、1854年(安政1)には側用人再勤となり、翌1855年9月には学校奉行兼職となり600石を給せられ、安政の改革推進役となりましたが、同年10月2日江戸大地震のため官舎で50歳の波瀾の生涯を閉じました。  著書には前述のほか、『回天詩史』『常陸帯(ひたちおび)』(ともに1844成立)『回天必力』など、力のこもった内容のものが多く、東湖流といわれる独特の書風と水戸人としては珍しく度量の広い人柄と相まって、水戸学普及のうえに大きな役割を果たしました。  ここにも東湖の肖像画と彼の生涯について詳しく掲載されています↓ https://history-men.com/fujita-toko/ 「水戸学」について  18世紀の末から幕末の時期にかけての水戸藩の学問は、内憂外患のものでの国家的危機をいかに克服するかについて独特の主張をもつようになりました。それが水戸学と呼ばれるものです。  その主張をまとまったかたちで表現した最初の人物は藤田幽谷で、幽谷は寛政3年(1791)に「正名論」を著わして、君臣上下の名分を厳格に維持することが社会の秩序を安定させる要であるとする考え方を示し、尊王論に理論的根拠を与えました。  幽谷の思想を継承・発展させたのが門人の会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)と幽谷の子藤田東湖でした。正志斎は文政8年(1825) 3月、『新論』を著わしました。  『新論』は、同年2月、江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、国家の統一性の強化をめざし、このための政治改革と軍備充実の具体策を述べたものです。そのさい、民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説きました。 ここに、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成されました。また、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも『新論』が最初です。  9代藩主徳川斉昭のもとで、天保期(1830-44)、藩政の改革が実施され、この改革の眼目の一つに藩校弘道館の建設がありました。この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、これは斉昭の署名になっているものの 実際の起草者は藤田東湖であり、東湖は斉昭の命でその解説書として『弘道館記述義』を著わした。『新論』が日本政治のあり方を論じたのに対し、これは日本の社会に生きる人々の「道」すなわち道徳の問題を主題とし、 『古事記』『日本書紀』の建国神話にはじまる歴史の展開に即して「道」を説き、そこから日本固有の道徳を明らかにしようとしたものです。  東湖は、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、「忠愛の誠」によって結びついている国家体制を「国体」とし、「忠愛の誠」に基づき国民が職分を全うしていく道義心が「天地正大の気」であると説いています。したがって、「天地正大の気」こそ建国以来の「国体」を支えてきた日本人独自の精神であり、内憂外患のこの時期にこそ「天地正大の気」を発揮して、国家の統一を強め、内外の危機を打開しなければならない、とするのが東湖の主張でありました。  要するに、水戸学の思想は、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようとしたのです。しかし開国以後、幕府にその国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、水戸学を最大の源泉とする尊王攘夷思想は反幕的色彩をつよめていきます。  そして、吉田松陰らを通して明治政府の指導者たちに受け継がれ、天皇制国家のもとでの教育政策や、その国家秩序を支える理念としての「国体」観念などのうえにも大きな影響を及ぼしていくのです。水戸学者には、前記の会沢正志斎・藤田東湖のほか、青山延于(のぶゆき)・青山延光(のぶみつ)父子、豊田天功、菅政友、栗田寛(ひろし)らがいます。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
火木土は哲学・思想に関するものをメインコンテンツとしていますが、今日はあんまり知る人も多くないかもしれませんが、日本の水戸学者の藤田東湖(ふじたとうこ.1806―1855)。

 東湖は江戸後期の水戸藩士でした。文化(ぶんか)3年3月16日藤田幽谷(ゆうこく)の次男として、水戸上町梅香(ばいこう)に生まれます。幼名武次郎、のち虎之介。諱(いみな)は彪(たけき)、字(あざな)は斌卿(ひんけい)、東湖はその号。
 父の家塾青藍舎(せいらんしゃ)で儒学などを修め、江戸に出て剣を岡田十松(おかだじゅうまつ)に学びました。学問は一派に偏せず広く学び、朱子学にはこだわりませんでした。
 1826年(文政9)父の死にあい、22歳で家督を継ぎ家禄(かろく)200石を受け、彰考館(しょうこうかん)編修となりました。徳川斉昭(とくがわなりあき)の藩主就任のときには、斉昭を擁立する改革派の先頭にたって活躍しました。

 水戸の天保(てんぽう)の改革では終始斉昭の側近として改革を推進しました。
 1840年(天保11)35歳で側近三役の一つ、側用人(そばようにん)の重職に抜擢(ばってき)され、やがて役料も加え500石を給せられます。
 父が町家出であるのを思えば、破格の昇進です。
 藩校弘道館(こうどうかん)の建設では、斉昭の意を受けてもっとも尽力しました。

 建学の方針を示した『弘道館記』は、東湖が成文の中心で、その解説『弘道館記述義』は、会沢正志斎(あいざわせいしさい)の『新論』とともに、水戸学の教典とされ、東湖作の「正気歌」などとともに、幕末の尊攘(そんじょう)運動家に大きな影響を与えました。

 1844年(弘化1)斉昭の失脚とともに東湖も幕命をもって罷免され、謹慎を命ぜられた。やがて斉昭が幕府の外交に参与するに至り、東湖も中央で活躍する機会に恵まれ、1854年(安政1)には側用人再勤となり、翌1855年9月には学校奉行兼職となり600石を給せられ、安政の改革推進役となりましたが、同年10月2日江戸大地震のため官舎で50歳の波瀾の生涯を閉じました。

 著書には前述のほか、『回天詩史』『常陸帯(ひたちおび)』(ともに1844成立)『回天必力』など、力のこもった内容のものが多く、東湖流といわれる独特の書風と水戸人としては珍しく度量の広い人柄と相まって、水戸学普及のうえに大きな役割を果たしました。

 ここにも東湖の肖像画と彼の生涯について詳しく掲載されています↓
https://history-men.com/fujita-toko/


「水戸学」について

 18世紀の末から幕末の時期にかけての水戸藩の学問は、内憂外患のものでの国家的危機をいかに克服するかについて独特の主張をもつようになりました。それが水戸学と呼ばれるものです。
 その主張をまとまったかたちで表現した最初の人物は藤田幽谷で、幽谷は寛政3年(1791)に「正名論」を著わして、君臣上下の名分を厳格に維持することが社会の秩序を安定させる要であるとする考え方を示し、尊王論に理論的根拠を与えました。

 幽谷の思想を継承・発展させたのが門人の会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)と幽谷の子藤田東湖でした。正志斎は文政8年(1825) 3月、『新論』を著わしました。
 『新論』は、同年2月、江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、国家の統一性の強化をめざし、このための政治改革と軍備充実の具体策を述べたものです。そのさい、民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説きました。 ここに、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成されました。また、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも『新論』が最初です。

 9代藩主徳川斉昭のもとで、天保期(1830-44)、藩政の改革が実施され、この改革の眼目の一つに藩校弘道館の建設がありました。この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、これは斉昭の署名になっているものの 実際の起草者は藤田東湖であり、東湖は斉昭の命でその解説書として『弘道館記述義』を著わした。『新論』が日本政治のあり方を論じたのに対し、これは日本の社会に生きる人々の「道」すなわち道徳の問題を主題とし、 『古事記』『日本書紀』の建国神話にはじまる歴史の展開に即して「道」を説き、そこから日本固有の道徳を明らかにしようとしたものです。

 東湖は、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、「忠愛の誠」によって結びついている国家体制を「国体」とし、「忠愛の誠」に基づき国民が職分を全うしていく道義心が「天地正大の気」であると説いています。したがって、「天地正大の気」こそ建国以来の「国体」を支えてきた日本人独自の精神であり、内憂外患のこの時期にこそ「天地正大の気」を発揮して、国家の統一を強め、内外の危機を打開しなければならない、とするのが東湖の主張でありました。

 要するに、水戸学の思想は、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようとしたのです。しかし開国以後、幕府にその国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、水戸学を最大の源泉とする尊王攘夷思想は反幕的色彩をつよめていきます。

 そして、吉田松陰らを通して明治政府の指導者たちに受け継がれ、天皇制国家のもとでの教育政策や、その国家秩序を支える理念としての「国体」観念などのうえにも大きな影響を及ぼしていくのです。水戸学者には、前記の会沢正志斎・藤田東湖のほか、青山延于(のぶゆき)・青山延光(のぶみつ)父子、豊田天功、菅政友、栗田寛(ひろし)らがいます。