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哲学 Φιλοσοφιαコミュの今日はマルクスの思想を取り入れた哲学者を挙げましょう。  ルイ・アルテュセール(1918〜90)は悲劇の人です。誠実で繊細な神経の持ち主てでした。  心の病から1980年に妻を殺害するという事件を起こし、晩年は病院に閉じ込められて生涯を終えています。  アルジェリアに移住したアルザス出身、カトリックを信仰する家庭に生まれます(ピエ・ノワールの家系)。父は銀行員。父の仕事の都合もあり、アルジェからマルセイユ、そしてリヨンのパルク高校(fr:Lycée du parc)で勉学を積みます。パルク高校の受験準備学級(fr:Classes préparatoires littéraires)では、ジャン・ラクロワ(fr:Jean Lacroix)やジャン・ギトン(fr:Jean Guitton)から哲学の授業を、またジョゼフ・ウルス(fr:Joseph Hours)から歴史の授業を受けました。  高校在学中の1937年に、キリスト教学生青年会(JEC; fr:Jeunesse étudiante chrétienne)に入会します。1939年に、高等師範学校に合格。しかし、学期が始まる前に、第二次世界大戦の勃発により、軍隊に動員されます。所属していた砲兵部隊は間もなく ヴァンヌで降伏、戦争の残りの期間を捕虜収容所で過ごします。  この間、アルチュセールは手帳に自伝的な文章を書き連ねており、この草稿は死後、Journal de captivité, Stalag XA 1940-1945 として公刊されました。  1948年にフランス共産党に入党した後も、このカトリシスムへの関心やカトリック関連組織への参加は続けられていきます。しかし、高校生当時抱いていた王政派的な政治上の傾向は、戦後になると鳴りをひそめました。  業績としては、マルクス主義を構造主義的に組みなおし、マルクスの『資本論』を新しい視点から読み直しました。エコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)の哲学科教授としてヘーゲル哲学を研究し、のち母校で哲学を講じ、ミシェル・フーコーなども指導しています。  マルクス主義における科学と哲学との関連の固有な構造を検出することが、彼の学問的営為の基礎をなしています。  彼の第一のキーワードは「認識論的切断」。これは、思想は連続的に進展するものではなく、思考史にはスパっと断絶があるというもので、パシュラールから学んだ概念でありました。たとえば、マルクスは『ドイツイデオロギー』を書いてからヘーゲル=フォイエルバッハ的な流れと断絶しており、その後もいくつかの断絶を経験しているということです。  第二のキーワードは「多元的(あるいは重層的)決定」という概念。これは通俗的マルクス主義における「上部構造は土台の反映である」といった単純な考え方を批判し、たとえばイデオロギーはさまざまなレベルが多元的に影響してつくりあげられていると主張しています。これはフロイトから学んだ考え方でありました。  マルクス主義は、イデオロギーは土台にもとづいて決定される上部構造であるとしますが、アルテュセールはイデオロギーを土台(経済)、上部構造(制度)から独立させて、その間に相互作用をするものとしました。  アルテュセールはもちろん、自殺したギリシアの政治学者・社会学者のニコス・プーランツァス、そして無神論的実存主義者のサルトルもそうですが、マルクス主義の誤謬(ごびゅう.あやまり)をあやまりとしては捉えず、「なにか足りないところがある」として、それぞれの立場からこれを補完しようとしたのです。

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今日はマルクスの思想を取り入れた哲学者を挙げましょう。

 ルイ・アルテュセール(1918〜90)は悲劇の人です。誠実で繊細な神経の持ち主てでした。
 心の病から1980年に妻を殺害するという事件を起こし、晩年は病院に閉じ込められて生涯を終えています。
 アルジェリアに移住したアルザス出身、カトリックを信仰する家庭に生まれます(ピエ・ノワールの家系)。父は銀行員。父の仕事の都合もあり、アルジェからマルセイユ、そしてリヨンのパルク高校(fr:Lycée du parc)で勉学を積みます。パルク高校の受験準備学級(fr:Classes préparatoires littéraires)では、ジャン・ラクロワ(fr:Jean Lacroix)やジャン・ギトン(fr:Jean Guitton)から哲学の授業を、またジョゼフ・ウルス(fr:Joseph Hours)から歴史の授業を受けました。
 高校在学中の1937年に、キリスト教学生青年会(JEC; fr:Jeunesse étudiante chrétienne)に入会します。1939年に、高等師範学校に合格。しかし、学期が始まる前に、第二次世界大戦の勃発により、軍隊に動員されます。所属していた砲兵部隊は間もなく ヴァンヌで降伏、戦争の残りの期間を捕虜収容所で過ごします。
 この間、アルチュセールは手帳に自伝的な文章を書き連ねており、この草稿は死後、Journal de captivité, Stalag XA 1940-1945 として公刊されました。
 1948年にフランス共産党に入党した後も、このカトリシスムへの関心やカトリック関連組織への参加は続けられていきます。しかし、高校生当時抱いていた王政派的な政治上の傾向は、戦後になると鳴りをひそめました。

 業績としては、マルクス主義を構造主義的に組みなおし、マルクスの『資本論』を新しい視点から読み直しました。エコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)の哲学科教授としてヘーゲル哲学を研究し、のち母校で哲学を講じ、ミシェル・フーコーなども指導しています。

 マルクス主義における科学と哲学との関連の固有な構造を検出することが、彼の学問的営為の基礎をなしています。

 彼の第一のキーワードは「認識論的切断」。これは、思想は連続的に進展するものではなく、思考史にはスパっと断絶があるというもので、パシュラールから学んだ概念でありました。たとえば、マルクスは『ドイツイデオロギー』を書いてからヘーゲル=フォイエルバッハ的な流れと断絶しており、その後もいくつかの断絶を経験しているということです。

 第二のキーワードは「多元的(あるいは重層的)決定」という概念。これは通俗的マルクス主義における「上部構造は土台の反映である」といった単純な考え方を批判し、たとえばイデオロギーはさまざまなレベルが多元的に影響してつくりあげられていると主張しています。これはフロイトから学んだ考え方でありました。

 マルクス主義は、イデオロギーは土台にもとづいて決定される上部構造であるとしますが、アルテュセールはイデオロギーを土台(経済)、上部構造(制度)から独立させて、その間に相互作用をするものとしました。

 アルテュセールはもちろん、自殺したギリシアの政治学者・社会学者のニコス・プーランツァス、そして無神論的実存主義者のサルトルもそうですが、マルクス主義の誤謬(ごびゅう.あやまり)をあやまりとしては捉えず、「なにか足りないところがある」として、それぞれの立場からこれを補完しようとしたのです。