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中華料理コミュの西新宿の台湾料理店「山珍居」 1931年のきょう(1月28日)、SF作家の小松左京が生まれました。本名、小松 実(こまつ みのる)。 星新一・筒井康隆と共に「SF御三家」と呼ばれ、日本SF界を代表するSF作家でありながら戦後の日本を代表する小説家でもありました。 『憂鬱なる党派』『邪宗門』の作家の高橋和巳とは共に京都大学出身で、学生時代からの親友。 1971年の高橋の死の際には一文を寄稿しています。 落語家の桂米朝とは共に無名時代からのポン友。 1970年の日本万国博覧会でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年の国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られます。 宇宙開発の振興を目的とした啓蒙活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問も務めました。 広範囲で深い教養を備えた知識人であり、その活動範囲は幅広く膨大なジャンルにわたります。デビューの直後から、通常の作家の枠を超えた八面六臂の活動を初めています。ジャーナリストして国内各地を歩き、メディア出演を精力的にこなし、未来学研究会やメタボリストなど、多くの学者やクリエイターと交流をもちました。 1970年の大阪万博では若干40歳弱にして主要スタッフに名を連ね、関西財界や財界との密接な交流は晩年まで続きました。そのすがたは、いま「SF作家」という言葉で想像されるものをはるかに超えています。 その時のエピソードを一緒にスタッフに名を連ねていたベテランのイベントプランナーからじきじきに聞かされたことがありますが、長くなりそうなので、いずれまた。 未来を書くSF作家としてデビューし、しかも好奇心旺盛だった小松は、単なるエンタテインメント作家ではありません、未来について語る新世代の知識人として、独特の期待を寄せられる運命にあったと言えます。実際彼はその期待に応え、小説執筆の傍らさまざまな言論人・建築家と積極的に交流し、様々な研究会、学会の設立に参加して積極的にコミットし、新しい知識人の一角を急速に占めていきました。学者や財界人を相手に文明論を語り、日本論を闘わせる精力的な人物でした。他方で小松は自ら製作会社を立ち上げて若い作家を集め大型SF映画の制作にも乗り出しています。 大阪出身の知識人として京阪地域の愛着はとりわけ強く、さまざまな場でブレイン役を勤めました。ほかにもエッセイや対談、メディア出演は数しれず、阪神大震災の際も活動を行っていました。 最大のベストセラーになったのは1973年に光文社から刊行された『日本沈没』で、社会現象とまでなりました。刊行前は「長すぎて売れない」と出版社側からは言われていましたが、3月に発売すると驚くほどの売れ行きを示し、その年末までに上下巻累計で340万部が刊行されました。福田赳夫や当時首相だった田中角栄も、この本を読んだとのこと。 小松はもともと、国土を失ったら日本人はどうなるかと発想し『日本沈没』を書いたのでした。 戦争で国土が分割されたり、領土を失った民族は世界各地に存在します。 14歳で母国日本が敗戦したのを目の当たりにした小松は、そんな運命が日本に訪れたらと想像しました。 だから、列島水没までの第一部に対して、住まいを失って日本人が海外で漂流する第二部は長いこと書かれませんでした。 他にも作品はたくさんありますが、私が強く影響を受けたのは、小説よりもむしろ日本文化などに言及したエッセイです。蘊蓄などという安直な言葉ではくくり切れない該博な知識には圧倒されました。彼は若い頃には漫画を描いていたり、日本共産党に入党して山村工作隊の一員として活動していたこともありました。 これを一覧するとよく分かりますが、小松さんの頭には「日本論」「日本人論」が大きく位置を占めていたようです ↓ https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/D1007945/D1007945y.pdf 日本で最初に書斎にパソコンを置いていた小説家。ただし、操作はすべて秘書の女性がしていたそうです。 実際に小松左京に会った知人は、酒の席で居合わせた若い女性ファンにサスペンダー(ズボン吊り)をぱちんぱちんとはじかせ、「ええやろ、これ」と煙草をくゆらしていたとか。 私はエッセイや漫画作品も含めて全作品を熟読しましたが、小説で好きなのは、短篇の『くだんの母』です。まだまだ述べたいことはたくさんありますが、スペースは限られています。生前にぜひ会っておきたかった人の一人。2011年7月26日、80歳で没。 https://www.youtube.com/watch?v=BTGKPKFj_X8 まだ若手だった時代にたくさんのSF作家たちとたむろっていた西新宿にある台湾料理店 ↓ https://www.youtube.com/watch?v=wL-1f4Ss4Do&t=19s 私はここでエッセイストの泉麻人、指パッチンのポール牧、漫画家の赤塚不二夫と出会いました。とくに赤塚さんとは隣同士のテーブルになりました。もの凄い大食漢であったのに目を見張らせられました。 京都の「哲学の道」をそぞろ歩きしていると、小松の短編「哲学者の小径(フィロソファーズ・レーン)」をどうしても思い起こす自分がいるのでした。 https://www.youtube.com/watch?v=tEHxKJrH1fY

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西新宿の台湾料理店「山珍居」

1931年のきょう(1月28日)、SF作家の小松左京が生まれました。本名、小松 実(こまつ みのる)。

星新一・筒井康隆と共に「SF御三家」と呼ばれ、日本SF界を代表するSF作家でありながら戦後の日本を代表する小説家でもありました。

『憂鬱なる党派』『邪宗門』の作家の高橋和巳とは共に京都大学出身で、学生時代からの親友。
1971年の高橋の死の際には一文を寄稿しています。

落語家の桂米朝とは共に無名時代からのポン友。

1970年の日本万国博覧会でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年の国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られます。

宇宙開発の振興を目的とした啓蒙活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問も務めました。

広範囲で深い教養を備えた知識人であり、その活動範囲は幅広く膨大なジャンルにわたります。デビューの直後から、通常の作家の枠を超えた八面六臂の活動を初めています。ジャーナリストして国内各地を歩き、メディア出演を精力的にこなし、未来学研究会やメタボリストなど、多くの学者やクリエイターと交流をもちました。

1970年の大阪万博では若干40歳弱にして主要スタッフに名を連ね、関西財界や財界との密接な交流は晩年まで続きました。そのすがたは、いま「SF作家」という言葉で想像されるものをはるかに超えています。
その時のエピソードを一緒にスタッフに名を連ねていたベテランのイベントプランナーからじきじきに聞かされたことがありますが、長くなりそうなので、いずれまた。

未来を書くSF作家としてデビューし、しかも好奇心旺盛だった小松は、単なるエンタテインメント作家ではありません、未来について語る新世代の知識人として、独特の期待を寄せられる運命にあったと言えます。実際彼はその期待に応え、小説執筆の傍らさまざまな言論人・建築家と積極的に交流し、様々な研究会、学会の設立に参加して積極的にコミットし、新しい知識人の一角を急速に占めていきました。学者や財界人を相手に文明論を語り、日本論を闘わせる精力的な人物でした。他方で小松は自ら製作会社を立ち上げて若い作家を集め大型SF映画の制作にも乗り出しています。

大阪出身の知識人として京阪地域の愛着はとりわけ強く、さまざまな場でブレイン役を勤めました。ほかにもエッセイや対談、メディア出演は数しれず、阪神大震災の際も活動を行っていました。

最大のベストセラーになったのは1973年に光文社から刊行された『日本沈没』で、社会現象とまでなりました。刊行前は「長すぎて売れない」と出版社側からは言われていましたが、3月に発売すると驚くほどの売れ行きを示し、その年末までに上下巻累計で340万部が刊行されました。福田赳夫や当時首相だった田中角栄も、この本を読んだとのこと。
小松はもともと、国土を失ったら日本人はどうなるかと発想し『日本沈没』を書いたのでした。 戦争で国土が分割されたり、領土を失った民族は世界各地に存在します。 14歳で母国日本が敗戦したのを目の当たりにした小松は、そんな運命が日本に訪れたらと想像しました。 だから、列島水没までの第一部に対して、住まいを失って日本人が海外で漂流する第二部は長いこと書かれませんでした。

他にも作品はたくさんありますが、私が強く影響を受けたのは、小説よりもむしろ日本文化などに言及したエッセイです。蘊蓄などという安直な言葉ではくくり切れない該博な知識には圧倒されました。彼は若い頃には漫画を描いていたり、日本共産党に入党して山村工作隊の一員として活動していたこともありました。

これを一覧するとよく分かりますが、小松さんの頭には「日本論」「日本人論」が大きく位置を占めていたようです ↓
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/D1007945/D1007945y.pdf


日本で最初に書斎にパソコンを置いていた小説家。ただし、操作はすべて秘書の女性がしていたそうです。

実際に小松左京に会った知人は、酒の席で居合わせた若い女性ファンにサスペンダー(ズボン吊り)をぱちんぱちんとはじかせ、「ええやろ、これ」と煙草をくゆらしていたとか。

私はエッセイや漫画作品も含めて全作品を熟読しましたが、小説で好きなのは、短篇の『くだんの母』です。まだまだ述べたいことはたくさんありますが、スペースは限られています。生前にぜひ会っておきたかった人の一人。2011年7月26日、80歳で没。
https://www.youtube.com/watch?v=BTGKPKFj_X8

まだ若手だった時代にたくさんのSF作家たちとたむろっていた西新宿にある台湾料理店 ↓
https://www.youtube.com/watch?v=wL-1f4Ss4Do&t=19s
私はここでエッセイストの泉麻人、指パッチンのポール牧、漫画家の赤塚不二夫と出会いました。とくに赤塚さんとは隣同士のテーブルになりました。もの凄い大食漢であったのに目を見張らせられました。



京都の「哲学の道」をそぞろ歩きしていると、小松の短編「哲学者の小径(フィロソファーズ・レーン)」をどうしても思い起こす自分がいるのでした。
https://www.youtube.com/watch?v=tEHxKJrH1fY