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俺の邪魔はするなコミュの1946年の今日(5月19日)、フランスにプロレスラー、アンドレ・ザ・ジャイアントが生まれました。本名、André René Roussimoff。 公式プロフィールでは身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされ、北米では "The 8th Wonder of the World"(世界8番目の不思議)、日本では「大巨人」などの異名で呼ばれました。 圧倒的な体格もさることながら、アームロックなどのレスリングテクニックでも観客を惹きつけることができる巨人レスラーとして、世界各地で活躍しました。1970年2月に国際プロレスにモンスター・ロシモフとして初来日した際、同時来日していたAWAのバーン・ガニアに見込まれ、1971年9月より北米へ進出。フランス語圏であるカナダのモントリオールを拠点に、ジャン・フェレの名で活動。 ここで映画『キング・コング』をモチーフにした世界八番目の不思議(The 8th Wonder of the World)というニックネームが付けられました。巨人選手対決として、キラー・コワルスキーやドン・レオ・ジョナサンなど超大物選手とも対戦しました。 1973年にアンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant)と改名し、WWWF(現:WWE)のプロモーターのビンス・マクマホン・シニアと契約。しかしWWWFとは専属契約をしたわけではなく、マクマホン・シニアのブッキングで古巣のAWAやNWAはもとより、世界中の様々な団体を定期的に短期参戦して回るようになります。これは「滅多に出会えない怪物」として希少価値を高めるというマーケティング上の戦術からの判断です。実際、それまでにプロレス界に登場したスカイ・ハイ・リーやグレート・アントニオなどの怪物レスラーは、アンドレとは異なりアスリートとしての実力的な問題もあって、短期間で一般層のファンから飽きられて人気が衰えていきました。この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレはベビーフェイスのスペシャル・ゲストの立場で各地のビッグイベントに出場。バトルロイヤルやハンディキャップ・マッチなどで圧倒的体格による強さを見せつけつつ、テリー・ファンク、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、スーパースター・ビリー・グラハムら当時のNWA・AWA・WWWFのヒール系世界王者を始め、ザ・シーク、ワルドー・フォン・エリック、ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ、レイ・スティーブンス、パット・パターソン、キラー・カール・コックス、アーニー・ラッド、イワン・コロフ、バロン・フォン・ラシク、スタン・ハンセン、マスクド・スーパースター、ブルーザー・ブロディ、リック・フレアー、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、バリアント・ブラザーズ、ミネソタ・レッキング・クルー、ロディ・パイパー、クラッシャー・ブラックウェル、アンジェロ・モスカ、モンゴリアン・ストンパー、バグジー・マグロー、ニコライ・ボルコフ、ザ・スポイラー、オックス・ベーカー、マーク・ルーイン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タンク・パットン、スーパー・デストロイヤー、サージェント・スローター、アレックス・スミルノフなど全米のトップ・ヒールと対戦しました(欧州では1979年12月にローラン・ボックとのシングルマッチも実現しています )。 1974年のギネスブックには「年俸世界一(40万ドル)のプロレスラー」として彼が掲載されています。当時の為替レートは1ドル=約300円。1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する1990年までWWF専属選手となりました。スーパースター軍団となったWWFでは同じ巨人型のビッグ・ジョン・スタッドがライバルとなり、レッスルマニアの第1回大会ではスタッドと『15000ドル争奪ボディスラム・マッチ』で対戦しました。アンドレはアメリカでは絶対のベビーフェイスでしたが、1987年、WWFでは長らく盟友だったハルク・ホーガンを裏切りヒールに転向、ボビー・ヒーナンをマネージャーに従え、コスチュームも黒のワンショルダーに変更しました。同年のレッスルマニアIIIではWWF世界ヘビー級王座を賭けホーガンと「世紀の対決」が行われましたが敗れました。この試合でホーガンがアンドレをボディスラムで投げたシーンはアメリカプロレス史上屈指の名シーンとなりました。翌1988年2月5日の "The Main Event" にて再戦が行われ、WWF王座を奪取したものの、直後にテッド・デビアスにアングルとしてベルトを売却。翌週にデビアスは王座を剥奪されましたが、以後デビアスと「メガ・バックス」なるタッグチームを結成し、ホーガン&ランディ・サベージの「メガ・パワーズ」と抗争を展開しました。 1980年代中期頃から急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われて行きました。その後、当時WWFがホーガンに代わる主役として期待していたアルティメット・ウォリアーの売り出しに使われ、連敗を重ねます。また「ヘビ嫌い」との設定が加わりジェイク "ザ・スネーク" ロバーツとも抗争。その後、マネージャーのヒーナンと仲間割れしてベビーフェイスに戻りますが、体調不良のため1990年にWWFを退団。その後、さらに増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少しましたが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場とのタッグ「大巨人コンビ」で活躍しました。 父親の葬儀へ出席するためフランスに帰国していた1993年1月27日、パリのホテル内で死去。死因は急性心不全でした。長年に渡る過度の飲酒(全盛期はビール、レスラー後期から晩年はワインを愛飲していた)が原因と言われています。 フランス出身について、ザ・グレート・カブキは「カナダのモントリオールで学生アマレスの強豪だったんだよ」と言っていますが、真相は不明です。 https://www.youtube.com/watch?v=yau2BZLnnMY

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1946年の今日(5月19日)、フランスにプロレスラー、アンドレ・ザ・ジャイアントが生まれました。本名、André René Roussimoff。
公式プロフィールでは身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされ、北米では "The 8th Wonder of the World"(世界8番目の不思議)、日本では「大巨人」などの異名で呼ばれました。

圧倒的な体格もさることながら、アームロックなどのレスリングテクニックでも観客を惹きつけることができる巨人レスラーとして、世界各地で活躍しました。1970年2月に国際プロレスにモンスター・ロシモフとして初来日した際、同時来日していたAWAのバーン・ガニアに見込まれ、1971年9月より北米へ進出。フランス語圏であるカナダのモントリオールを拠点に、ジャン・フェレの名で活動。
ここで映画『キング・コング』をモチーフにした世界八番目の不思議(The 8th Wonder of the World)というニックネームが付けられました。巨人選手対決として、キラー・コワルスキーやドン・レオ・ジョナサンなど超大物選手とも対戦しました。

1973年にアンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant)と改名し、WWWF(現:WWE)のプロモーターのビンス・マクマホン・シニアと契約。しかしWWWFとは専属契約をしたわけではなく、マクマホン・シニアのブッキングで古巣のAWAやNWAはもとより、世界中の様々な団体を定期的に短期参戦して回るようになります。これは「滅多に出会えない怪物」として希少価値を高めるというマーケティング上の戦術からの判断です。実際、それまでにプロレス界に登場したスカイ・ハイ・リーやグレート・アントニオなどの怪物レスラーは、アンドレとは異なりアスリートとしての実力的な問題もあって、短期間で一般層のファンから飽きられて人気が衰えていきました。この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレはベビーフェイスのスペシャル・ゲストの立場で各地のビッグイベントに出場。バトルロイヤルやハンディキャップ・マッチなどで圧倒的体格による強さを見せつけつつ、テリー・ファンク、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、スーパースター・ビリー・グラハムら当時のNWA・AWA・WWWFのヒール系世界王者を始め、ザ・シーク、ワルドー・フォン・エリック、ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ、レイ・スティーブンス、パット・パターソン、キラー・カール・コックス、アーニー・ラッド、イワン・コロフ、バロン・フォン・ラシク、スタン・ハンセン、マスクド・スーパースター、ブルーザー・ブロディ、リック・フレアー、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、バリアント・ブラザーズ、ミネソタ・レッキング・クルー、ロディ・パイパー、クラッシャー・ブラックウェル、アンジェロ・モスカ、モンゴリアン・ストンパー、バグジー・マグロー、ニコライ・ボルコフ、ザ・スポイラー、オックス・ベーカー、マーク・ルーイン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タンク・パットン、スーパー・デストロイヤー、サージェント・スローター、アレックス・スミルノフなど全米のトップ・ヒールと対戦しました(欧州では1979年12月にローラン・ボックとのシングルマッチも実現しています )。

1974年のギネスブックには「年俸世界一(40万ドル)のプロレスラー」として彼が掲載されています。当時の為替レートは1ドル=約300円。1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する1990年までWWF専属選手となりました。スーパースター軍団となったWWFでは同じ巨人型のビッグ・ジョン・スタッドがライバルとなり、レッスルマニアの第1回大会ではスタッドと『15000ドル争奪ボディスラム・マッチ』で対戦しました。アンドレはアメリカでは絶対のベビーフェイスでしたが、1987年、WWFでは長らく盟友だったハルク・ホーガンを裏切りヒールに転向、ボビー・ヒーナンをマネージャーに従え、コスチュームも黒のワンショルダーに変更しました。同年のレッスルマニアIIIではWWF世界ヘビー級王座を賭けホーガンと「世紀の対決」が行われましたが敗れました。この試合でホーガンがアンドレをボディスラムで投げたシーンはアメリカプロレス史上屈指の名シーンとなりました。翌1988年2月5日の "The Main Event" にて再戦が行われ、WWF王座を奪取したものの、直後にテッド・デビアスにアングルとしてベルトを売却。翌週にデビアスは王座を剥奪されましたが、以後デビアスと「メガ・バックス」なるタッグチームを結成し、ホーガン&ランディ・サベージの「メガ・パワーズ」と抗争を展開しました。

1980年代中期頃から急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われて行きました。その後、当時WWFがホーガンに代わる主役として期待していたアルティメット・ウォリアーの売り出しに使われ、連敗を重ねます。また「ヘビ嫌い」との設定が加わりジェイク "ザ・スネーク" ロバーツとも抗争。その後、マネージャーのヒーナンと仲間割れしてベビーフェイスに戻りますが、体調不良のため1990年にWWFを退団。その後、さらに増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少しましたが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場とのタッグ「大巨人コンビ」で活躍しました。

父親の葬儀へ出席するためフランスに帰国していた1993年1月27日、パリのホテル内で死去。死因は急性心不全でした。長年に渡る過度の飲酒(全盛期はビール、レスラー後期から晩年はワインを愛飲していた)が原因と言われています。

フランス出身について、ザ・グレート・カブキは「カナダのモントリオールで学生アマレスの強豪だったんだよ」と言っていますが、真相は不明です。
https://www.youtube.com/watch?v=yau2BZLnnMY