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「倫理」が好きコミュの和辻 哲郎(わつじ てつろう)  西田幾多郎と共に現在でも海外でも研究対象とされている倫理学者。  和辻哲郎(1889年.明治22年3月1日 - 1960年.昭和35年12月26日)は、哲学者の西田幾多郎(にしだきたろう.1870〜1945)や仏教学者の鈴木大拙(すずき だいせつ.1870年- 1966年)と並んで海外からも研究の対象とされる稀有な倫理学者・哲学者です。いわゆる「京都学派」中枢の一人。  写真と経歴はこちらを↓ https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6070/  やはり研究のスタートは西洋の哲学者からです。これは多くの日本思想史研究者にも共通するところ。  上記に付け加えるなら、29歳の年の初めごろから、対象に即する思惟(しい)への傾向を強め、祖先の生活を見つめようとする動機から大和の地を訪ね、古寺巡礼の旅をしました。その旅行記が『古寺巡礼』(1919)で、この旅行によって、飛鳥・奈良時代の彫刻・建築のような偉大な芸術を創造した日本人は何者であったかという疑問に追い立てられました。この疑問に答えたのが『日本古代文化』(1920)に始まる一連の日本精神史、日本文化史の研究――『日本精神史研究』(1926)、『続日本精神史研究』(1935)、『日本倫理思想史』(1952)などです。この日本研究のなかで仏教の占める比重は大きいのですが、その仏教思想を純粋な姿でとらえようとしたのが『原始仏教の実践哲学』(1927)で、その研究方法は、学生時代にケーベル教授から教え込まれたドイツの近代文献学によっています。そのことは『ホメロス批判』(1946)が示していますが、『原始キリスト教の文化史的意義』(1926)、『孔子』(1938)なども同じ方法をもってした労作です。  1934年(昭和9)、それまで8年余勤務した京都大学から東京大学へ転任しましたが、京都時代の末期から形成されつつあった倫理学の体系的研究が結実して『倫理学』3巻(1937〜1949)となりました。それに先だって『人間の学としての倫理学』(1934)に人と人との間柄が倫理であるという新しい解釈がなされ、海外旅行の体験を踏まえて編み出された『風土』(1935)の理論も「人間学的考察」という副題が付されています。敗戦の原因を究明して人倫の世界史的反省を試みた『鎖国』(1950)、『日本芸術史研究(歌舞伎(かぶき)と操浄瑠璃(あやつりじょうるり))』(1955)、『自叙伝の試み』(1961)など晩年の業績も多彩で、それらは集められて『和辻哲郎全集』全20巻として刊行されました(1961〜1963)。1955年(昭和30)文化勲章が授与されました。  主著の一つ『日本倫理思想史』も興味のあるところですが、もう一つの『風土』について。 Wikipediaから  『風土』は欧州留学中、ハイデッガーの『存在と時間』に示唆を受け、時間ではなく空間的に人間考察をおこなったもの。1935年に初刊。第二次世界大戦後に盛んになった日本文化論の先駆的な作品ともいえる。風土をモンスーン(日本も含む)、砂漠、牧場に分け、それぞれの風土と文化、思想の関連を追究した。『風土』の中に見られる「風土が人間に影響する」という思想は、悪しき環境決定論であるという批判や、天皇制肯定論になっているという批判がある。一方でこの風土という考え方こそが、グローバリゼーションの弊害をとどめる積極的な方法論である、とする評価(オギュスタン・ベルク)もある。 ← 引用ここまで  和辻哲郎にとって風土論は、彼の人間論と密接な関係にある、というより人間論の不可分の要素となっています。和辻にとって人間とは、個であると共に全体でもあるのですが、その全体とは人間の共同態としての社会的な性格のものであり、そこには人間の間柄が働いている、とされます。風土というのは、この間柄のあり方を根本的に規定しているのです。したがって風土とは、言葉の表面的な意味から連想されるような単なる自然のあり方ではなく、人間の生き方そのもの、「人間が己を見出す仕方」としてとしてとらえられています。人間は風土を離れて存在し得ない、風土が人間を作る。そのように和辻は考えているわけなのです。  和辻は風土を三つの類型に分け、それぞれをモンスーン型、沙漠型、牧場型と命名します。これは和辻の独創によるもののようです。西洋にも主に自然条件=外的環境としての見地から風土を分類するものはありましたが、和辻のように整然とした分類はなかったようです。しかも和辻はそれぞれの類型に、それに対応した人間の生き方を絡ませて論じた。その点では独創的な着目点だといってよいところです。だから海外からも研究の対象とされるのです。東大派のように海外の学説を追いかけているばかりでは、そもそも研究される対象とはなり得ません。  さて、モンスーン型は、インドや中国を含めた東アジアに特徴的な風土であり、暑気と湿潤な自然が、そこに暮す人々を受容的・忍従的にさせる、沙漠型はアラビア半島に典型的に見られるもので、乾燥した過酷な自然がそこに暮す人々を戦闘的でかつ全体意思への絶対服従的な態度を亢進させる、牧場型はヨーロッパに見られるもので、穏やかで従順な自然が、そこに生きている人々に合理的で規則的な態度を養わせる。もっとも、このように類型化できるとはいえ、各類型内部には差異が存在し、インドと中国との相違のようにその度合いが大きい場合もありますが、おおまかにいえば、各類型の基本的な特徴を共有している、と和辻は整理するのです。  こう整理したうえで和辻は、それぞれの類型は基本的にはそれぞれ対等であって、その間に優劣はないと考えているようです。もっとも日本の場合については、他の民族に比較してすぐれた特徴を多く指摘できるのであり、それがまた日本の風土と密接に関連していると和辻はいうのです。  和辻が各類型の対等性にこだわるのは、西洋的な見方への反発が働いているのだと思われます。和辻はこの「風土」の最後の部分で、ヘルダー以下西洋人の風土論に言及していますが、西洋人の考え方の基本は、西洋人こそが人類で最も進歩したものであって、ほかの民族は西洋人に劣るばかりか、最終的には西洋的なものを理想として、それに向かって進歩しつつあるのだと考える傾向が強い、こうした考えからすれば、日本の属するモンスーン型や沙漠型の風土は、西洋の風土より一段価値の劣ったものなのであり、したがってその劣った価値を刻印された諸民族も西洋人に比べて人間的な価値に劣っている、ということになるのです。  和辻はこうした見方を到底受け入れられないと反発したからこそ、各類型に進歩の段階だとか、価値の優劣はないのであり、それぞれ対等なものなのだと強調したわけなのでしょう。  こういう和辻の基本的な姿勢は、進歩史観を批判して、未開社会も西洋的な社会も、一定の形成原理によって成り立っている点では対等なのだと主張したレヴィ・ストロースと似たところがあります。  各風土の特徴づけとか、風土と人間との相互作用についての和辻の議論は、和辻特有の言葉遊びも働いて、帰納的・実証的というよりは多分に演繹的な色彩を帯びています。このあたりが和辻哲郎が批判される論拠となっているようです。

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和辻 哲郎(わつじ てつろう)

 西田幾多郎と共に現在でも海外でも研究対象とされている倫理学者。

 和辻哲郎(1889年.明治22年3月1日 - 1960年.昭和35年12月26日)は、哲学者の西田幾多郎(にしだきたろう.1870〜1945)や仏教学者の鈴木大拙(すずき だいせつ.1870年- 1966年)と並んで海外からも研究の対象とされる稀有な倫理学者・哲学者です。いわゆる「京都学派」中枢の一人。

 写真と経歴はこちらを↓
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6070/

 やはり研究のスタートは西洋の哲学者からです。これは多くの日本思想史研究者にも共通するところ。
 上記に付け加えるなら、29歳の年の初めごろから、対象に即する思惟(しい)への傾向を強め、祖先の生活を見つめようとする動機から大和の地を訪ね、古寺巡礼の旅をしました。その旅行記が『古寺巡礼』(1919)で、この旅行によって、飛鳥・奈良時代の彫刻・建築のような偉大な芸術を創造した日本人は何者であったかという疑問に追い立てられました。この疑問に答えたのが『日本古代文化』(1920)に始まる一連の日本精神史、日本文化史の研究――『日本精神史研究』(1926)、『続日本精神史研究』(1935)、『日本倫理思想史』(1952)などです。この日本研究のなかで仏教の占める比重は大きいのですが、その仏教思想を純粋な姿でとらえようとしたのが『原始仏教の実践哲学』(1927)で、その研究方法は、学生時代にケーベル教授から教え込まれたドイツの近代文献学によっています。そのことは『ホメロス批判』(1946)が示していますが、『原始キリスト教の文化史的意義』(1926)、『孔子』(1938)なども同じ方法をもってした労作です。
 1934年(昭和9)、それまで8年余勤務した京都大学から東京大学へ転任しましたが、京都時代の末期から形成されつつあった倫理学の体系的研究が結実して『倫理学』3巻(1937〜1949)となりました。それに先だって『人間の学としての倫理学』(1934)に人と人との間柄が倫理であるという新しい解釈がなされ、海外旅行の体験を踏まえて編み出された『風土』(1935)の理論も「人間学的考察」という副題が付されています。敗戦の原因を究明して人倫の世界史的反省を試みた『鎖国』(1950)、『日本芸術史研究(歌舞伎(かぶき)と操浄瑠璃(あやつりじょうるり))』(1955)、『自叙伝の試み』(1961)など晩年の業績も多彩で、それらは集められて『和辻哲郎全集』全20巻として刊行されました(1961〜1963)。1955年(昭和30)文化勲章が授与されました。


 主著の一つ『日本倫理思想史』も興味のあるところですが、もう一つの『風土』について。
Wikipediaから
 『風土』は欧州留学中、ハイデッガーの『存在と時間』に示唆を受け、時間ではなく空間的に人間考察をおこなったもの。1935年に初刊。第二次世界大戦後に盛んになった日本文化論の先駆的な作品ともいえる。風土をモンスーン(日本も含む)、砂漠、牧場に分け、それぞれの風土と文化、思想の関連を追究した。『風土』の中に見られる「風土が人間に影響する」という思想は、悪しき環境決定論であるという批判や、天皇制肯定論になっているという批判がある。一方でこの風土という考え方こそが、グローバリゼーションの弊害をとどめる積極的な方法論である、とする評価(オギュスタン・ベルク)もある。 ← 引用ここまで

 和辻哲郎にとって風土論は、彼の人間論と密接な関係にある、というより人間論の不可分の要素となっています。和辻にとって人間とは、個であると共に全体でもあるのですが、その全体とは人間の共同態としての社会的な性格のものであり、そこには人間の間柄が働いている、とされます。風土というのは、この間柄のあり方を根本的に規定しているのです。したがって風土とは、言葉の表面的な意味から連想されるような単なる自然のあり方ではなく、人間の生き方そのもの、「人間が己を見出す仕方」としてとしてとらえられています。人間は風土を離れて存在し得ない、風土が人間を作る。そのように和辻は考えているわけなのです。

 和辻は風土を三つの類型に分け、それぞれをモンスーン型、沙漠型、牧場型と命名します。これは和辻の独創によるもののようです。西洋にも主に自然条件=外的環境としての見地から風土を分類するものはありましたが、和辻のように整然とした分類はなかったようです。しかも和辻はそれぞれの類型に、それに対応した人間の生き方を絡ませて論じた。その点では独創的な着目点だといってよいところです。だから海外からも研究の対象とされるのです。東大派のように海外の学説を追いかけているばかりでは、そもそも研究される対象とはなり得ません。

 さて、モンスーン型は、インドや中国を含めた東アジアに特徴的な風土であり、暑気と湿潤な自然が、そこに暮す人々を受容的・忍従的にさせる、沙漠型はアラビア半島に典型的に見られるもので、乾燥した過酷な自然がそこに暮す人々を戦闘的でかつ全体意思への絶対服従的な態度を亢進させる、牧場型はヨーロッパに見られるもので、穏やかで従順な自然が、そこに生きている人々に合理的で規則的な態度を養わせる。もっとも、このように類型化できるとはいえ、各類型内部には差異が存在し、インドと中国との相違のようにその度合いが大きい場合もありますが、おおまかにいえば、各類型の基本的な特徴を共有している、と和辻は整理するのです。

 こう整理したうえで和辻は、それぞれの類型は基本的にはそれぞれ対等であって、その間に優劣はないと考えているようです。もっとも日本の場合については、他の民族に比較してすぐれた特徴を多く指摘できるのであり、それがまた日本の風土と密接に関連していると和辻はいうのです。

 和辻が各類型の対等性にこだわるのは、西洋的な見方への反発が働いているのだと思われます。和辻はこの「風土」の最後の部分で、ヘルダー以下西洋人の風土論に言及していますが、西洋人の考え方の基本は、西洋人こそが人類で最も進歩したものであって、ほかの民族は西洋人に劣るばかりか、最終的には西洋的なものを理想として、それに向かって進歩しつつあるのだと考える傾向が強い、こうした考えからすれば、日本の属するモンスーン型や沙漠型の風土は、西洋の風土より一段価値の劣ったものなのであり、したがってその劣った価値を刻印された諸民族も西洋人に比べて人間的な価値に劣っている、ということになるのです。

 和辻はこうした見方を到底受け入れられないと反発したからこそ、各類型に進歩の段階だとか、価値の優劣はないのであり、それぞれ対等なものなのだと強調したわけなのでしょう。

 こういう和辻の基本的な姿勢は、進歩史観を批判して、未開社会も西洋的な社会も、一定の形成原理によって成り立っている点では対等なのだと主張したレヴィ・ストロースと似たところがあります。

 各風土の特徴づけとか、風土と人間との相互作用についての和辻の議論は、和辻特有の言葉遊びも働いて、帰納的・実証的というよりは多分に演繹的な色彩を帯びています。このあたりが和辻哲郎が批判される論拠となっているようです。