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「倫理」が好きコミュの現在のインドにおける仏教  火木土は哲学や思想についてをメインコンテンツにしています。  仏教はインドが発祥地とされます。2500年ほど前に、仏陀を開祖として説かれた教えです。  仏陀とは「悟った者・真理に目覚めた人(覚者)」という意味があり、仏陀以外にも幼少名のゴータマ・シッダールタや、一族の名をもとにした釈迦・釈尊などさまざまな名で呼ばれています。  仏教では仏陀の説いた教えに従い、僧侶や在家信者それぞれの立場で修行・実践して悟りや解脱(涅槃)を成道することを目標としています。  仏教が始まった紀元前5世紀前後から着実に成長し、紀元前3世紀のアショーカ王治下のマウリヤ朝で国家宗教として承認される時まで、安定した成長を見せてきました。仏教は、紀元前の数世紀にわたり繁栄し続け、さらには中央アジア、インド亜大陸を越て中国大陸にまで広まりました。  しかし、後のグプタ朝とパーラ朝の時代のインドにおいて、仏教は着実に衰退していきました。法顕や玄奘、義浄、慧生、宋雲といった、5世紀から8世紀の間にこの地を旅した中国の僧侶たちは、特に白フン族の侵攻をきっかけとする、仏教徒の僧伽の衰退について言及するようになりました。  衰退は、12世紀のパーラ朝の崩壊とイスラーム勢力のインド亜大陸への段階的な征服後も続きました。その頃までに仏教は、特に敵対的支配者に対して脆弱になっていました。それは、支持者達の大部分は禁欲的共同体にいたので、社会に強い根を張っていなかったからです。  1203年、イスラム教徒の襲撃により、東インド・ベンガル地方のヴィクラマシラー寺院が破壊されました。この時期には、その他多くの大寺院も破壊され、同時に多くの仏教僧が殺されました。そして、辛うじて生き残った者たちはチベットその他の周辺地域に逃れていったそうです。一般にはこの一連の大寺院の破壊をもってインド仏教の滅亡と見なしています。ただし、仏教はインドの地から完全に姿を消したわけではなく、各地で細々と生き延びていました。  しかし7〜8世紀、インドにおいて仏教とヒンドゥー教の対立があったところにイスラム勢力が侵攻し、これら3つの宗教の力関係の中で、仏教信者層がイスラム教に改宗するなどして仏教の存在意義がなくなっていったことから仏教が衰退消滅に向ったのでした。  このような形で滅亡したインド仏教が再び表舞台に出てくるのは20世紀、すなわちアンベードカル(一八九一〜一九五六年)の登場を待たねばなりません。被差別階級出身の彼は、独立前のインドにおいて、社会改革よりも独立を優先したガンジーと激しく対立したことで知られます。インド独立後には、法務大臣の職にまで就いた彼でしたが、最晩年にはヒンドゥー教に見切りをつけて仏教に改宗し、新仏教運動を開始しました。そして、その際には、彼に従って数十万の大衆が改宗しました。  現在、インドで仏教を信仰しているのは、カースト制度のさらに下に位置付けられている不可触賤民の人たちです。また、日本人僧侶の佐々井秀嶺氏(浄土真宗)が運動を引き継いで普及に努めており、いまなお新たに改宗する者も多いそうです。このような新仏教運動は一定の成果を収め、インド国内でも日本でも注目されていますが、インド社会の差別はいまだ根強く、新仏教徒たちを取り巻く環境や生活様式などの問題は、多くの文化人類学者、社会学者の興味を引いており、現在進行形の調査が行われています。  現在のインド仏教徒は640万人(インド国勢調査、2001年、人口比〇・8%)です。 インド人口の8割以上はヒンドゥー教徒であることに鑑みると、仏教徒はインドでマイノリティとして位置づけられます。 不可触賤民について  インドのカースト制社会の宗教的支配者階級であったバラモンは、清浄と不浄(穢れ)という基準で社会集団を差別化し、自らの宗教的な権威を維持しようとしました。農業社会の発展とともに隷属民とされていたシュードラ(カースト制度最下級の奴隷)が農民・牧畜に従事するようになると、その下に別に差別の対象として、社会の最下層で雑役や清掃、皮革製造などにあたる人々を不可触民として扱うようになりました。彼らはパーリヤと言われ、触れてはいけない人々(untouchable)とされました。後にはカースト外の民、という意味でアウトカーストとも言われました。かれらの中も多くの身分差があり、互いに差別しあう関係にありました。  前6世紀ごろからインダス川中流域の都市経済が発展するという社会的変動のなかで、ヴァルナ制では生産民とされていたヴァイシャ(第三位の身分とされる庶民階級)の活動が主として商業へと傾いていきました。そのため、農業や牧畜、手工業と言った肉体労働、つまり生産活動を担う階層が、第4階級のシュードラに移行していきました。そうなるとシュードラのなかでヴァイシャに近づき得たものと、そうでないものの格差が広がり、より下層のものはヒンドゥー教で不浄とされた死、血、排泄などにかかわる職業(例えば動物の屠殺や皮革加工、清掃、選択などの雑役)の専業とされ、上位カーストから「触るのも汚らわしい(アチュート)」としてカーストから除外されるようになりました。このような人々によって不可触民が形成されることによって、下位カーストであったシュードラは生産を担う庶民層として遇されるようになったのです。  現在、約1億人いるとされるインドの仏教界では、この日本人が大きな役割を果たしています ↓ https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b08d1c48323dc1c35d04584c1e4fbb69aba1fc7b    インド仏教最高位の日本人僧侶(82)    命をかけた52年目の闘争

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現在のインドにおける仏教

 火木土は哲学や思想についてをメインコンテンツにしています。

 仏教はインドが発祥地とされます。2500年ほど前に、仏陀を開祖として説かれた教えです。
 仏陀とは「悟った者・真理に目覚めた人(覚者)」という意味があり、仏陀以外にも幼少名のゴータマ・シッダールタや、一族の名をもとにした釈迦・釈尊などさまざまな名で呼ばれています。
 仏教では仏陀の説いた教えに従い、僧侶や在家信者それぞれの立場で修行・実践して悟りや解脱(涅槃)を成道することを目標としています。

 仏教が始まった紀元前5世紀前後から着実に成長し、紀元前3世紀のアショーカ王治下のマウリヤ朝で国家宗教として承認される時まで、安定した成長を見せてきました。仏教は、紀元前の数世紀にわたり繁栄し続け、さらには中央アジア、インド亜大陸を越て中国大陸にまで広まりました。
 しかし、後のグプタ朝とパーラ朝の時代のインドにおいて、仏教は着実に衰退していきました。法顕や玄奘、義浄、慧生、宋雲といった、5世紀から8世紀の間にこの地を旅した中国の僧侶たちは、特に白フン族の侵攻をきっかけとする、仏教徒の僧伽の衰退について言及するようになりました。

 衰退は、12世紀のパーラ朝の崩壊とイスラーム勢力のインド亜大陸への段階的な征服後も続きました。その頃までに仏教は、特に敵対的支配者に対して脆弱になっていました。それは、支持者達の大部分は禁欲的共同体にいたので、社会に強い根を張っていなかったからです。

 1203年、イスラム教徒の襲撃により、東インド・ベンガル地方のヴィクラマシラー寺院が破壊されました。この時期には、その他多くの大寺院も破壊され、同時に多くの仏教僧が殺されました。そして、辛うじて生き残った者たちはチベットその他の周辺地域に逃れていったそうです。一般にはこの一連の大寺院の破壊をもってインド仏教の滅亡と見なしています。ただし、仏教はインドの地から完全に姿を消したわけではなく、各地で細々と生き延びていました。

 しかし7〜8世紀、インドにおいて仏教とヒンドゥー教の対立があったところにイスラム勢力が侵攻し、これら3つの宗教の力関係の中で、仏教信者層がイスラム教に改宗するなどして仏教の存在意義がなくなっていったことから仏教が衰退消滅に向ったのでした。


 このような形で滅亡したインド仏教が再び表舞台に出てくるのは20世紀、すなわちアンベードカル(一八九一〜一九五六年)の登場を待たねばなりません。被差別階級出身の彼は、独立前のインドにおいて、社会改革よりも独立を優先したガンジーと激しく対立したことで知られます。インド独立後には、法務大臣の職にまで就いた彼でしたが、最晩年にはヒンドゥー教に見切りをつけて仏教に改宗し、新仏教運動を開始しました。そして、その際には、彼に従って数十万の大衆が改宗しました。


 現在、インドで仏教を信仰しているのは、カースト制度のさらに下に位置付けられている不可触賤民の人たちです。また、日本人僧侶の佐々井秀嶺氏(浄土真宗)が運動を引き継いで普及に努めており、いまなお新たに改宗する者も多いそうです。このような新仏教運動は一定の成果を収め、インド国内でも日本でも注目されていますが、インド社会の差別はいまだ根強く、新仏教徒たちを取り巻く環境や生活様式などの問題は、多くの文化人類学者、社会学者の興味を引いており、現在進行形の調査が行われています。

 現在のインド仏教徒は640万人(インド国勢調査、2001年、人口比〇・8%)です。 インド人口の8割以上はヒンドゥー教徒であることに鑑みると、仏教徒はインドでマイノリティとして位置づけられます。


不可触賤民について

 インドのカースト制社会の宗教的支配者階級であったバラモンは、清浄と不浄(穢れ)という基準で社会集団を差別化し、自らの宗教的な権威を維持しようとしました。農業社会の発展とともに隷属民とされていたシュードラ(カースト制度最下級の奴隷)が農民・牧畜に従事するようになると、その下に別に差別の対象として、社会の最下層で雑役や清掃、皮革製造などにあたる人々を不可触民として扱うようになりました。彼らはパーリヤと言われ、触れてはいけない人々(untouchable)とされました。後にはカースト外の民、という意味でアウトカーストとも言われました。かれらの中も多くの身分差があり、互いに差別しあう関係にありました。

 前6世紀ごろからインダス川中流域の都市経済が発展するという社会的変動のなかで、ヴァルナ制では生産民とされていたヴァイシャ(第三位の身分とされる庶民階級)の活動が主として商業へと傾いていきました。そのため、農業や牧畜、手工業と言った肉体労働、つまり生産活動を担う階層が、第4階級のシュードラに移行していきました。そうなるとシュードラのなかでヴァイシャに近づき得たものと、そうでないものの格差が広がり、より下層のものはヒンドゥー教で不浄とされた死、血、排泄などにかかわる職業(例えば動物の屠殺や皮革加工、清掃、選択などの雑役)の専業とされ、上位カーストから「触るのも汚らわしい(アチュート)」としてカーストから除外されるようになりました。このような人々によって不可触民が形成されることによって、下位カーストであったシュードラは生産を担う庶民層として遇されるようになったのです。



 現在、約1億人いるとされるインドの仏教界では、この日本人が大きな役割を果たしています ↓

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b08d1c48323dc1c35d04584c1e4fbb69aba1fc7b
   インド仏教最高位の日本人僧侶(82)
   命をかけた52年目の闘争