ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte, 1769年8月15日-1821年5月5日)はフランスの軍人・政治家で、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世(在位1804年-1814年、1815年)。フランス革命後のフランスをまとめあげ、フランスに帝政を敷き、ナポレオン戦争と呼ばれる戦争で全ヨーロッパに侵略し、席巻するも敗北し、その後ヨーロッパの秩序はウィーン体制に求められた。当時のイギリスの首相ウィリアム・ピットは、「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」とナポレオンを評した。
フランス軍人として
1769年、コルシカ島アジャクシオにおいて、父カルロ=マリア・ブオナパルテ(仏語名シャルル=マリ・ボナパルト)と母マリア=レティツィアの間に八人のうち二番目の子供として生まれる。出生時の名前はナブリオーネ・ブオナパルテ(コルシカ語: Nabulione Buonaparte)。ブオナパルテ家はロンバルディア州に起源を持つ古い地主であり、父は判事をしていたが、コルシカ独立闘争の折にはパオリの副官を努めていた。後にフランス側に転向し、この事で貴族の資格を得た。姓をブオナパルテ (Buonaparte) からフランス風のボナパルト (Bonaparte)、名をナポレオンと改称するのはフランスで出世し始めてからのことである。
幼年期に、父カルロ、兄ジュゼッペ(仏名ジョゼフ)とともに渡仏。子供時代のナポレオンは読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』に傾倒し、おとなしい性格だった。初めは修道院付属学校に入るが、すぐに辞めて国費で1779年にブリエンヌ陸軍幼年学校に入学、1784年にパリの陸軍士官学校に入学した。この間、数学に抜群の成績を納めるが、全体としてはあまり優秀とはいえず、卒業試験の成績は58人中42位だったという。この時期のエピソードとしてクラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話がある。
1785年に砲兵士官に任官。1789年、バスティーユ牢獄陥落の報に接して、ナポレオン自身もフランス革命に参加し、ジャコバン派を支持する小冊子を出して逮捕されている。1792年にコルシカに帰郷してアジャクシオの国民衛兵隊中佐となるが、それによりフランス王党派と繋がりのあるパオリと亀裂が生じ、パオリの腹心でナポレオンの縁戚関係にあるボルゴらによってブオナパルテ家弾劾決議を下され、一家で追放に近い逃避行によってマルセイユに移住する。
マルセイユでは、裕福な商家であるクラリー家と親しくなる。兄ジョゼフは、クラリー家のマリー=ジュリーと結婚し、ナポレオンもマリー=ジュリーの妹デジレ(デジレ・クラリー)と恋仲となり、婚約している。その後、大佐に昇進し、1793年末、イギリス艦隊に占拠されたトゥーロン攻略作戦に砲兵専門家の才を買われ参加。功績を挙げて少将・旅団長となる。
1794年に革命政府ではロベスピエールがテルミドールのクーデターで失脚して処刑され、ナポレオンはその弟のオーギュスタンと繋がりがあったために投獄された。だが、釈放後に総裁政府の総裁ポール・バラスによって登用され、1795年のパリに於ける王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)を、首都の市街地で大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法であっさり鎮圧したことで師団長となり、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとった。
1796年、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして、貴族の未亡人でバラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚する。同年、バラスによってイタリア方面軍の司令官に抜擢される。ナポレオン戦争の範囲はこのイタリア遠征の時点から取ることが多い。このときナポレオンは27歳であった。
[編集]
若き英雄
フランス革命戦争において総裁政府はドイツ側から二軍、イタリア側から一軍をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの軍を任された。ドイツ側からの軍がオーストリア軍の抵抗に頓挫したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝、ミラノから1797年4月にウィーンに迫り、10月に城下の盟を誓わせた(カンポ・フォルミオの和約)。11月、フランスへの帰国途中、1798年に行われるラシュタット会議に儀礼的に参加。この時、フランス革命において暗躍したスウェーデンのフェルセン伯爵と出会った。12月、パリへと帰還したナポレオンはフランスの新たな若き英雄となっていた。このときタレーラン・ペリゴールと出会う。
オーストリアが脱落した事で第一次対仏大同盟は崩壊したが、強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンはイギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを企図し、エジプト遠征を総裁政府に進言し、これを認められた。1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城した。しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオンが率いる軍はエジプトに孤立してしまう。
12月には第二次対仏大同盟が結成され、再びフランスは危機に陥る。1799年にはオーストリアによってイタリアを奪還され、民衆の間では総裁政府を糾弾する声が高くなっていた。ナポレオンは、アブキールの陸戦に勝った後でエジプトを脱出し、フランスへ帰還する。民衆はナポレオンを、エジプトを平定した英雄として歓呼と共に迎えた。11月、ナポレオンはブリュメールのクーデタを起こし、統領政府を樹立、自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。もしクーデタが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪及び国家反逆罪で銃殺刑を免れ得なかった。
[編集]
統領ナポレオン
政権の座に着いたナポレオンは連合国に対して講和を申し出るが、これは拒絶される。それにナポレオンはアルプスを越えて北イタリアに進出、1800年6月のマレンゴの戦いでオーストリア軍に勝利、フランスの別働軍もオーストリア軍を撃破し、翌年2月にオーストリアは和約に応じて、ライン川の左端をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約で第二次対仏大同盟は崩壊し、イギリスのみが戦争を続けるものの1802年3月にはアミアンの和約で一時的に講和した。
また並行して内政面でも諸改革を行った。全国的な税制制度、行政制度の整備を進めると同時に革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力をそそいだ。1800年にはフランス銀行を設立し経済の安定をはかった。1802年には有名なレジオン・ドヌール勲章を創設した。また、教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定してもいる。さらには国内の法整備にも取り組み1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を制定した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観と取り入れた画期的なものであった。他にも教育・交通網の整備にも尽力している。
ローマ教会との和解も目指したナポレオンは1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、国内の宗教対立を緩和した。また王党派・ジャコバン派などの前歴を問わず人材を登用し、国内を融和に導いた。その一方で現在の体制を覆そうとする者には容赦をせずに弾圧した。第一執政となった時から暗殺未遂事件は激化し、1800年12月に王党派による爆弾テロも起きている。これらの事件の果ての1804年3月のフランス王族アンギャン公の処刑は、全ヨーロッパに反ナポレオン、対反キリストの情勢を生み出し、逆にナポレオン陣営は、相次ぐ暗殺未遂からの対抗から帝制への道を突き進んで行く。そして1802年8月2日に終身統領(終身執政)となり、独裁権をさらに強めていった。
[編集]
皇帝ナポレオン
1804年12月2日に即位式を行い、「フランス人民の皇帝」に就いた(フランス第一帝政)。この事は多方面に様々な衝撃を与えた。彼を人民の英雄と期待し「ボナパルト」と言う題名でナポレオンに献呈する予定で交響曲第3番を作曲していたベートーヴェンは、失望してナポレオンへのメッセージを捨て曲名も『英雄』に変更した。当然ながら、ナポレオンへの曲の献呈は取り止めた。
ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家、官僚、学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。
皇帝時代のナポレオン
拡大
皇帝時代のナポレオン
1805年、アミアン和約を破り、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を終結させる。イギリスはこれに対してオーストリア・ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成する。プロイセンは同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オーストリアからの外交の手は常に伸びており、ナポレオンはこれを中立のままにしておくためにイギリスから奪ったハノーヴァーを譲渡するとの約束をした。
陸上ではナポレオンは、10月のウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領する。そしてオーストリアを救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍がオーストリアのフランツ1世の軍と合流し、即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地でナポレオン軍と激突。ナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、オーストリアはプレスブルク条約でフランスに屈服した。この戦いは三人の皇帝が一つの戦場に会したことから三帝会戦と呼ばれる。イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戦に衝撃を受け、翌年に没した。凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝して1806年に建築が命じられたものである。
しかしその一方で1805年10月にネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗。イギリス上陸作戦は失敗に終わる。尤もナポレオンは、この敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解される事になったという。
ヨーロッパ中央を制圧したナポレオンは兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に就け、ライン同盟を発足させてこれを保護国化することでドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことで長い歴史を持つ神聖ローマ帝国は事実上解体した。
[編集]
絶頂へ
ドイツに対してナポレオンが強い影響力を持つ事に不快感を感じたプロイセンはナポレオンと対立するようになり、1806年、イギリス・ロシア・スウェーデンを集めて第四次対仏大同盟を組織。ナポレオンは、10月のイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を破ってベルリンを占領。プロイセン国王のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は逃亡する。
1807年、ナポレオンはポーランドへ向かう。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人マリア・ヴァレフスカと出会う。彼女はナポレオンの愛人となり、後にナポレオンの庶子アレクサンドル・ヴァレフスキを出産した。同年、プロイセンを救援に来たロシア軍をアイラウの戦い・フリートラントの戦いで撃破する。講和条約のティルジット条約でプロイセンの領土を大幅に削って小国にしてしまい、ポーランドに誕生させたワルシャワ公国、弟ジェロームを王位に就けて誕生させたヴェストファーレン王国をともにフランスの傀儡国家とした。
スウェーデンに対してもフランス元帥ベルナドットを王位継承者として送り込み、ベルナドットは1818年に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる。この王家は現在まで続いているが、ベルナドット自身がナポレオンに対してあまり好意を抱いておらず、スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、強固たる関係とはいえない状態であった。またデンマークはイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。結局デンマークは、同盟関係を破棄できず、破局を見るのである。
並行して1806年11月にイギリスに対してベルリン勅令(大陸封鎖令)を出し、戦勝したロシア・プロイセンなども参加させて大陸とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とそうとしたが、これは大陸諸国とフランス民衆の大きな不満を買うことになる。
1808年、スペイン・ブルボン朝の内紛に乗じて兄ジョゼフを王位につける。しかしこれに対するスペインの反発は激しく半島戦争(1808年-1814年)が起こり、蜂起した民衆の伏兵による抵抗闘争にフランス軍は苦戦する(「ゲリラ」という語はこのとき生まれた)。ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画は有名である。ナポレオンが「スペインの潰瘍が私を滅ぼした」と語ったとおり、このスペインでの戦役は、ナポレオンの栄光のターニング・ポイントであった。後年ナポレオンにとって、スペインはアキレス腱となり、没落の遠因にもなったからである。この時のイギリス軍将軍は、後のウェリントン公アーサー・ウェルズリーであった。
1809年、ナポレオンがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアはナポレオンに対して起ち上がり、イギリスとオーストリアで第五次対仏大同盟が結成される。しかしこの同盟にはプロイセンが参加しておらず、ナポレオンはオーストリアにアスペルン・エスリンクの戦いで敗れるが、ヴァグラムの戦いで辛くも勝利。シェーンブルンの和約を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。
この和約の後、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、翌年にオーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚した。この婚約は当初ロシア皇女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって消滅。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。1811年に王子ナポレオン2世が誕生し、乳児をローマ王の地位に就けた。この過程で教皇領は解体され、ローマ教皇ピウス7世は幽閉される。
ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパを制圧し、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評される。
[編集]
滅亡へ
大陸封鎖令を出した事でイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代わりを重農主義のフランスが務めるのは無理があったので、フランス産業も苦境に陥った。そのために1810年にロシアが封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開し、ナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。1812年、ナポレオンはロシア遠征を決行する(ロシア側では祖国戦争と呼ばれる)。
フランスは同盟諸国から徴兵した60万という大軍でロシアに侵入したが、兵站を軽視したナポレオン軍は、ロシア軍の広大な国土を活用し徹底した焦土戦術によって苦しめられ、飢えと寒さで次々と脱落し、モスクワをも大火で焦土とされたことで、ナポレオン軍はとても留まっておられずに総退却となった。冬将軍もロシアに最大限に味方して、数十万のフランス兵がロシアの大地に散った。無事に帰還してこれたものはわずか5千であったという。それに加え、パリではクーデター未遂が起こされる始末であった(首謀者マレー将軍は後に銃殺)。ナポレオンはクーデターの報を聞き、撤退する軍よりも早く帰国する。この途上でナポレオンは、大陸軍の惨状を嘆き、百年前の大北方戦争を思い巡らせ、「余はスウェーデン王カール12世の様にはなりたくない」と洩らしたという。
この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて第六次対仏大同盟を結成する。この同盟にはベルナドットのスウェーデンも参加していた。ロシア遠征で数十万の兵を失った後、強制的に徴兵された新米で訓練不足の若年兵たちは「マリ・ルイーズ兵」と陰口を叩かれた。1813年春、それでもナポレオンはプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデン等の同盟軍と、リュッツェンの戦い・バウツェンの戦い・ドレスデンの戦いに勝って休戦。メッテルニヒとの和平交渉が不調に終わった後、秋のライプツィヒの戦いでは同盟軍に包囲されて大敗し、フランスに逃げ帰った。
1814年に情勢はさらに悪化し、フランスの北東にはシュヴァルツェンベルク、ブリュッヒャー両将軍の軍勢25万、北西にはベルナドット将軍の16万、南方ではウェルズリー将軍の10万の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。3月31日には帝国の首都パリが陥落する。ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したが、マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ(4月4日、将軍連の反乱)、エルバ島の小領主として流刑にされた。この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。
ナポレオンは、「ローマ王」だったナポレオン2世を後継者としたかったが、同盟国側に認められず、またベルナドットもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末、ブルボン家が後継に選ばれた。
[編集]
百日天下とその後
ナポレオンの墓
拡大
ナポレオンの墓
ナポレオン失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。さらに、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。
1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロセインの連合軍にワーテルローの戦いで完敗して百日天下は終わった。
ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカへの亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降した。イギリス政府はアーサー・ウェルズリー(ウェリントン)将軍の提案を採用しナポレオン大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉した。
ナポレオンはごく少数の随行者とともに島中央のロングウッドの屋敷で生活した。その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、ナポレオンの行動を監視した。また、乗馬での散歩も制限され、実質的な監禁生活であった。その中でもナポレオンは随行者に口述筆記させた膨大な回想録を残した(ラス・カーズの『セント・ヘレナ覚書』など)。これらは彼の人生のみならず彼の世界観・歴史観・人生観まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。
ナポレオンは特に島の総督ハドソン・ロウの無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した。また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はロウという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。そうした心労も重なって彼の病状は進行し1821年に死去した。彼の遺体は遺言により解剖されたが、死因としては当時公式に表明された胃癌とも、またヒ素中毒ともいわれている。その遺骸は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。
[編集]
死因をめぐる論議
ヒ素中毒説が語られるのは、彼の遺体をフランス本国に返還するために掘り返した時、その身体が死の直後と変わりなかった事(ヒ素は剥製にも使われるように保存作用がある)からうかがえる。ヒ素はナポレオンとともにセントヘレナに行った者がワインに混入した説、その当時の剥製にはヒ素が使われていて、ナポレオンの部屋にあった剥製のヒ素がカビとともに空気中に舞い、それを吸ったためだ、という説がある。後者については2002年にパリ警視庁・法医学研究所がナポレオンの皇帝時代に採取された髪に対して放射光による調査を行ったところ、当時既にかなりのヒ素中毒であったことが判明している。また埋葬時に遺体に対してヒ素で保存処置を行った可能性もあり、彼の死因については依然として論議が続いている。
最近の研究では胃癌、あるいは胃潰瘍の説が取り沙汰されている。ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者がいたし、ナポレオン自身もまた胃潰瘍であった。特に1817年以降の病気は悪化している。もっとも20年以上に渡り戦場を駆けめぐり、重圧と緊張が持続し続けた生活では、元々頑丈ではなかった心身に変調を来たさない訳はなかった。それでも若い頃は精神力でカバーできていたが、40歳を迎える頃には、精神障害・生理傷害・感覚障害・形態傷害などがナポレオンの体を蝕んでいた。その死は、ナポレオンが没落し、激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的ストレスとなり、生活の変調がもたらした致死性胃潰瘍であるといわれている。それは心身ともに打ちのめされた人間に起こりやすいといわれている。まさに英雄から敗北者・戦犯に貶められた、ナポレオンにこそ当てはまるのではないかと主張する医学者もいる。しかしナポレオンの死の原因は、21世紀の現在に至っても決着していない。
[編集]
ナポレオン後のフランス
ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという結果に終わった。一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)された。軍人、小土地自由農民とプチブルジョワジーを基盤とするその権力形態はボナパルティズムと呼ばれる。ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現われた。以後フランスの人口は伸び悩み、イギリス・ドイツなどに抜かれる事となった。1831年には、フランス軍の夥しい喪失からフランス人からの徴兵は止めて多国籍によるフランス外人部隊が創設される事になった。
即位したルイ18世とその後のシャルル10世はナポレオン以前の状態にフランスを回帰させようとしたが、ナポレオンによってもたらされたものはフランスに深く浸透しており、もはや覆すことはできなかった。王党派は、1815年の王政復古から、反ボナパルティズムを取り、数年に渡り白色テロを繰り返した。王党派とボナパルティストとの長き対立と確執は、フランスに禍根を残すことにも繋がった。ウィーン体制による欧州諸国の反動政治もまた、欧州諸国民の憤激を買い、フランス革命の理念が欧州各国へ飛び火して行くことになる。
1840年に遺骸がフランス本国に返還されたことでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高まり、ナポレオンの栄光を想う感情がフランス第二帝政を生み出すことになる。
[編集]
ナポレオンの影響
ナポレオンの法・政治・軍事といった遺産はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。このことはローマの法・政治・軍事が各国に伝播していったこと以上の影響を与えた。
ナポレオン法典はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ・ポルトガルや日本などの民法に影響を与えている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法である。アメリカ合衆国ルイジアナ州の現行民法もナポレオン法典である。
軍事的にもナポレオンが生み出した、国民軍の創設、砲兵・騎兵・歩兵の連携、輜重の重視、指揮官の養成などその後の近代戦争・近代的軍隊の基礎となり、プロイセンにおいてカール・フォン・クラウゼヴィッツによって『戦争論』に理論化されることになる。
政治思想史に於いてもフランス革命の思想がナポレオン戦争によって各国に輸出されたという事も見逃してはならない。ちなみに、右側通行がヨーロッパ全土に普及したのもこの頃である(イギリスは占領されなかったので左側通行のまま)。
「輜重の重視」という方針を実行する過程において、軍用食の開発のために効率的な食料の保存方法を広く公募する事も行い、そこで発明されて採用されたのがニコラ・アペールが発明した「瓶詰」である。「瓶詰」そのものは加工の手間がかかり過ぎて普及しにくかったものの、ここで発明された「密封後に加熱殺菌」という概念が、後に「缶詰」(1810年イギリスにて発明)などの保存食の大発展へと繋がっていく。
また、ナポレオンのイギリス封鎖によって砂糖価格が暴騰、ピート(甜菜、別名:砂糖大根)から砂糖を作る事が一気に普及する結果となった。